第2話 大友義鑑の後妻で宗麟の母、坊城氏とは天皇の御落胤
今回は宗麟の母親についての話です。
引用がどこまでOKなのか不明なので、今回は現代語訳だけ掲載します。
■■■現代語訳■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宗麟の母は坊城殿の娘である。
これは後奈良天皇のおてかけとなり(妊娠していたのを)大内義興が☆さいきよう(=再京?京都を訪れていた時?)の時、(家臣の)服部がお供に上京していたので、坊城の娘を服部に遣わした。
(彼女は)奈良天皇の子を身ごもって3月になろうかという時に遣わされたという。
☆ わらちょうこ殿は服部へ遣わされたので、服部の家で生まれた。
そのため服部娘と称したが後奈良天皇の子という。
また☆服部とうむきの子の筋は原権左衛門元勝、雑賀(元相)である。
■■■解説■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宗麟の母親は天皇の子である。
こんなトンでも無い説を書いていますが、これは大友家や島津家が源頼朝の御落胤だったとする江戸時代の系図と同じく、自分の家の由緒を立派に見せようとする嘘だと思われます。
つまり、この文書を書いた人間は宗麟の子孫と血縁にあり、自分は天皇家の御落胤だと言いたかったのではないでしょうか?
なお『うらちょうこ』とは
また『とうむき』というのも『藤向』という名の人物なのか仮名を指すものと思われますが、納得のいく名詞が思いつきませんでした。
なお原元勝は『防府天満宮の石大鳥居』の正面向って右柱に『當國大守大江朝臣秀就公御建立奉行益田玄蕃頭藤原元祥防府代官雑賀三郎兵衛藤原元相 原権左衛門尉源元勝』と名前が彫られているそうです。
ttps://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/bunkazai/summary.asp?mid=90005&pid=bl&svalue=&bloop=&mloop=&floop=&shicyouson=&meisyou=&shitei=&kubun=&syurui=&jidai=&loopcnt=&m_mode=&m_value=&m_loopcnt=
また一所に名が掲載されている雑賀 元相は毛利氏の家臣でWIKIによると
『長州藩士。父は雑賀隆利、母は服部豊前守の娘』
とあります。二人とも服部家の娘が嫁いだ家のようです。
天正12年(1584年)、毛利氏家臣である雑賀隆利の子として生まれ、慶長8年(1603年)12月19日、毛利輝元から「三郎兵衛尉」の官途名と「元」の偏諱を与えられ、慶長10年(1605年)4月14日に父・元利が死去し、家督を継いだ。
寛永9年(1632年)9月1日、毛利秀就から直書を送られ、同年に藩政を引退した益田元祥に代わって当役を務める宍道元兼に民の安全と年貢の徴収が成り立つよう申し渡したので、元相も地下人の不行儀を見聞きし次第に何事も宍道元兼に報告するよう命じられた。
寛永15年(1638年)2月27日、島原の乱において弟の正利と正相が戦死する。
寛文5年(1665年)8月24日に死去。享年82。子の就正が後を継いだ。
とありますので、この文書が書かれた時には存命で作者も血縁者として交流があったのかもしれません。
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