久我氏の子孫と服部氏の由緒について
第15話 20、服部家の由緒?
■■■原文■■■
はつ鳥はいかのくにのさふらいときく、くわんありてならのこうふく寺たききののふニいてしヲおうち殿むりニ
もらい、よひ下給ふ、少ふけわかしゆ
山口へ
により一たひ下て、またくにへ
帰らるる、そのいこ又なつかしく
おほしめし下さるるよし候へとも
くたらす、くれないノ手のこひ
はなかミなとかたミにくたすと申候
よしたか御はらめされ候時、ふ川
まても下て候出、はつとりすちへ
わたせと聞のよしヲ
人つてニうけ給候、
■■■訳文■■■
服部(はっとり)は伊賀の国の侍と聞く。
勘(=天皇の怒り。勅勘)があって奈良の興福寺たききの府にいたのを大内殿が無理に貰い【山口に】呼んだ。
少ふけわかしゆにより一度山口に下ったが、また(伊賀?)国へ帰った。
その後、再び(大内殿が)懐かしくお思いになって召し寄せようとしたが下らず
紅の手のこひはなかミなと 形見に下す言われた。
(これは)義隆殿が腹を召(=切腹する)された時、ふ川まで下った際に「服部筋へ渡せ」と聞いた事を人づてに受けたものである。
■■■解説■■■
服部氏は伊賀の侍だったが大内家が無理に呼んだ。
これは義隆の右筆、相良武任と通じる所が有ります。
文治に優れた彼は武断派と対立して身の危険を感じ、何度も出奔しますが義隆の願いで呼びもどされてます。
違いがあるとすれば相良は豊前で大内家臣に捕まり処刑されますが、服部は呼び戻しに応じず生存している点。
その生存者と豊後大友氏との接点は無いのですが、江戸時代になって言い伝えを書き写したのか、適当に由緒をねつ造したのかは不明です。
たききの府とは薪荘(山城国綴喜(つづき)郡の木津川西岸)と推測されますが、そちらは石清水八幡宮の所有だったそうで、興福寺の領地は西北にある大住荘だそうです。
『この二つの領地は1235年(嘉禎1)に用水相論が起こり,興福寺による薪荘在家(ざいけ)60宇の焼打ち,石清水八幡宮神人(じにん)2人の殺害の結果,両荘の相論は石清水八幡宮と興福寺の両権門(けんもん)間の相論に拡大した』とあり、敵対関係にありました。
引用『コトバンク』
https://kotobank.jp/word/%E8%96%AA%E8%8D%98-849726
この記述は自分のルーツを最後に記して、文書に箔をつけようとして、不確定な情報ながら分かる事を掲載したのかもしれません。
伝聞ゆえに詳しい情報で勘違いが生じたのか、当時は興福寺の領地だったのか、
『たたきの府』は別の所なのかは不明ですが…
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