第7話 ②宗麟2女 久我殿妻

 久我殿の母上様【近衛殿】は近衛殿の御子である。

 久我三休は坊主だったが還俗し、婿に行った。

 一条殿はとうせん(=当前?目の前)の身持ちもままならず世を厭んで出家したという。

 宗麟は博多の乳母・坊城殿の娘と、坊主としていた人の乳母 読経ときやう

 ☆たいとやらん、叔母・姪とやろうと一門の間によって、婿にとると言う。

 

 2人の御子は豊後 木付殿(大分県杵築市の領主)の妻となった。その子供は

 ① ▼一尾淡路殿

 ② しやう二郎殿

 ③ あていさま

 ④ おさ五さま

 ⑤ こひめさまである。


 木付殿が死んだ後、(久我の娘は)早川主馬(長政)殿に(嫁ぎ)いて、又後家になられ、北の政所様に御子が(出来た)ということで、上臈となった。

 関ヶ原の合戦後、(徳川?)三河殿が政所様に御出して、肴を御子が進上した。

 三河殿は受け取し、三河殿が堅固(存命時)の間は三河にいた。


 独り身になると、内裏に申上げて近衛のゆかりが有ったので、親類の力も借りれば、届かない事があるだろうか?

 御子かは三川より京都に登ると、あせち殿なども奉公していた時分なので、

 上臈を尋ねて、上方かた江戸へ行き、そこで死亡した。

 一尾淡路殿はこの御3年以前に死亡した。(寛永10年=1633年)

 淡路殿の初めの奥様さまは、義統の2番目の息女で、一尾うぬめ通尚殿の母である。

 その以後は尾張様の母、八幡おかめ様の姪子である。

 此の尾張様の母様も死亡した。

 此おかめさまのめい子ノ御子は尾張に居るのだが、名も名字も忘れてしまった。

 此おかめさまの乳母は豊後種という、

 義統の御うちかたとやらん、御ふくろとやらん、

 患いにより(その此の)天やくの内ようあん

 と申す人(が)豊後に下り、(ふんこしゆ)その時、召し連れられ(京に)上り給いて

 その豊後種の娘の腹の筋と聞く。

 筋目を聞いて☆めいむことなし給ふやうにうけ給候、

 おかめさまの乳母子(は)豊後より登った。

 人は豊後奈多殿(の)一門の子と聞く、

 宗麟 御台所の御一門と言う。

 奈多も大友の☆わかさり也。


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 意味不明の単語が増えて、翻訳を断念しました。

 実は、この文書は久我氏の一族が書いたのではないかと言われおり、二女の子孫の消息だけ細かく書かれています。

 本書の記述に従えば、彼女は後奈良天皇の子孫であり、今日の公家 久我氏の子孫でもある貴種ということでしょう。


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