第16話 17、宗麟5女 小早川秀包妻の子供

■■■原文■■■

ひてかん(小早川秀包)御うち子、もりいか殿、もりひた内、ちくせんよしたいき殿

内、いはら三右内也、

もりさもんとの、二人ははつかもり大かくとの也、


■■■訳文■■■


小早川秀包の妻(宗麟の5女、マダレイナ)の子は、

① 毛利伊賀元信殿(洗礼名フランシスコ?)、

② 毛利飛騨元景の妻、

③ 筑前 吉田壱岐重成殿の妻(於佐手)、

④ 井原三右の妻である。

⑤ 毛利左門殿(元貞)、

 2人は、☆はつか毛利大学殿である。


■■■解説■■■(日=フロイス日本史文庫版の略)


 毛利秀包の子供は5人いたとネットではあり合致するようです。


 彼女はフロイス日本史やイエズス会の年報告に登場しています。

 1584年くらいに兄の義統から結婚するように言われたけど、性格が合わないので断ったら刀を突き付けられて脅されたので、宗麟の家に避難し、そこでキリシタンとなります。

 彼女はマグダレナの洗礼名を貰い、大友家が秀吉の家臣となると『奈多夫人の末娘(5女)は1587年、義統の正室とその娘とともに豊臣家の人質として下関に行く』(日11P70)とあり、1588年に毛利藤四郎秀包に嫁いでいます。

 秀包も1587年に黒田官兵衛の説得でキリシタンとなりシモンの名を受けていたので(日11P174)秀吉の伴天連追放令で一度棄教するものの、マグダレナとその乳母の熱心な勧誘でキリシタンとなり、秀吉にばれない様に信仰を続けました。

 1589年には男子を出産(毛利元鎮)し。すぐに洗礼を受け、祖父と同じフランシスコの名を授かります。(日11P281)

 彼は1599年頃『息子のフランシスコは10~11才で刀で仏像を切り付け比で燃やした』とあるので、立派なキリシタンに育ったようです。(日報1-3P213。P215では12才とあるが数え年だろう)

 彼のその後は分かりませんが

『1600年、関ヶ原で西軍の毛利家が敗北した際にマセンシアは家臣達と暴徒に囲まれ、黒田官兵衛の兄弟でキリシタンの惣右衛門の援助のおかげで助かったが久留米の主だったキリシタンは流罪となった。(日報1-3P259)』

 とあるので、そのこれ以降はキリシタンである事を公言はしなくなったのではないかと推測されます。


 なお末子の毛利左門は小早川秀包の次男、毛利元貞という人物らしいのですが、そのあとに続く『2人』が何を指すのかは分かりませんでした。

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