第11話 15 宗麟2男 利根川道考(大友親家)の子供
■■■原文■■■
道かうの御子三、藤右の内・松のおりへとの、御つまさまには子なし
・毛利大学能久の内である。
藤右の御つま様には子がない。
大学殿に子2人
織部殿にも子がある
■■■訳文■■■
道孝の御子は3人。
・藤右の内(長岡殿の身内?)
・松野織部(親英)殿の御つま様には子無し
・毛利大学能久の妻である
藤右内と御つま様には子がない。
大学殿には子2人
織部殿にも(別の妻との間の)子がある
■■■解説■■■
あくなき権力欲で他人を蹴落とし大友家を掻き廻した揚句、大友家が不利になると島津に寝返ろうとした大友親家の話です。
この文書は何を言いたいのか判断が難しいですが、毛利大学の妻となった女性には2人子供が生まれたが、他の2人は子供が生まれなかった。と言いたいのだと思われます。
『御つま様には子がいないが織部殿に子がいる』と言うのは、道孝の娘とは異なる別の妻との間の子がいたという事でしょう。
大友親家は最初大友家を継げず、林親家と名乗りますが、田原家の養子がキリシタンに興味を示すと、改宗をそそのかして自分が田原家の養子に収まり、田原親家と改名します。
ところが、戦闘指揮の才能が無かったようで、秋月氏との戦いで大敗。
その後、大友家が危なくなると島津氏に寝返りの手紙を送って島津から公表されるという失態を周知されます。
処刑されてしかるべき裏切りですが、宗麟の取りなしで所領没収で済まされ臼杵に移り、片目の視力を失いながらキリシタンとして熱のない人生を送ります。
この頃には門司勘解由允と名乗っていたようです。
父 宗麟の臨終に立会い、葬儀を執り行った後、天正19年(1591年)8月には、再び加判衆に再任され、翌20年(1592年)の文禄の役にも参陣。
大友氏が改易された後は、立花宗茂の軍に付けられ、のち、慶長14年(1609年)には細川忠興に100石30人扶持で客分として仕官し、利根川道孝と改名。
本書はこれ以降に書かれたのでしょう。
寛永18年(1641年)、死去。子の親英の子孫は熊本藩の細川氏の直臣となり、松野氏を称し、墓所は熊本県熊本市の岫雲院 (春日寺)にあるそうです。
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