解説と考察

第20話 大友家婚姻録が書かれたのは1689年以後か?

 本作は大友宗麟の2女が嫁いだ久我氏の息子、一尾氏に関する文書と推測されています。

 なお本書の成立時期ですが、7話目の久我氏の項で


 ●一尾淡路殿はこの53年以前に死亡した。


 とあり、一尾淡路殿が死亡した寛永10年=1633年より後なのは確かです。

 また、誤植で無いとすれば1686年以後の話ともなります。


 さらに一尾淡路殿の息子 一尾伊織に関してはWIKIを見ると

『一尾 伊織(いちお いおり)は、江戸時代前期の旗本・茶人。一尾通春の子。母は大友吉統の娘。名は通尚。号は徹斎、宗碩、一庵、照庵。


 略歴

 一尾氏は、久我晴通の四男・久我三休が一尾庄に住したことに初まり、その孫が伊織である。寛永10年(1633年)に父が没し、翌年父の遺領のうち1,000石を相続し書院番となった。その後職を辞し小普請となった。貞享元年(1684年)7月19日に致仕し、徹斎と号す。


 細川忠興(三斎)家臣の津川四郎左衛門に茶道を学び、三斎流一尾派を創始した。竹の花筒、茶杓の製作に秀いで、琵琶を製作という。元禄2年(1689年)、91歳で没した。著作に「一尾流之書」などがある。

 弟・通利の子・通命を娘の婿として迎えるが早死にし、その子で孫・通門を養子にするがこれも夭折した。土井甲斐守家臣の大野市左衛門定秀の子・通定が伊織の養子となり家督を継いだ。』


 とあります。


 これに8話目の一尾淡路の項の

『淡路殿の家も家を継ぐ者(=長男)が死に、家が廃れた。

 そのため淡路殿の2男 うねめ通尚殿がなかおか(長岡?)殿の所にいたので、なかおか殿は幕府にすぐ報告した。』

 という記述と比べると1689年よりも後に書かれた書となります。


 そうなると久我氏の5女『小姫は十九歳の時に長崎で出家した人で、30年前に死亡した。』

という記述は1659年頃となり、イエズス会報告集1-5巻に書かれた人物とは別人と言う事になります。


 ですが寛政重脩諸家譜によると、一尾通命 (小兵衛、了安)は1651 年 7 月 24 日に亡くなっているようなので、養子は早死にしたというのは正しく、1651年よりも後なのは確定です。

 

 これらの情報を考えると本書の成立は1689年以後と見るのが矛盾がなさそうです。





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大友家婚姻録の現代語訳(右田毛利家文書48号より) 黒井丸@旧穀潰 @kuroimaru

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