エピローグ

20

 背後でなにかが地面に落ちた。振り向くと、見覚えのある男が尻餅をついている。青っぽいつなぎから、たぶんこの学校の清掃員だ。

 男は歯をがちがち鳴らしながら私を見ていた。手を使って地面を手繰り寄せるように後退る。

 ゆっくり視線を下ろすと、私の膝の上には細い腰があって、腕の中には華奢な肩を抱えている。

 口元がべたべたしている。指で拭って、見てみると、人差し指が赤く汚れている。奥歯に、ガムのようなものが引っかかっていることにも気付く。指で引っ張り出すと、濁ったピンク色をした肉塊が手のひらの上に乗った。

「チサ」

 かすれた声で名を呼ばれ、ようやく、アリスを抱えていることに気がついた。

 アリスは私の腕のなかでぐったりと力を失っていた。髪は乱れ、ブラウスのボタンは二番目までない。はだけて、黄緑色のキャミソールが見えている。キャミソールはその脇腹のところで、浅く突き刺さったバールで皮膚に縫い留められている。血を吸って、色が台無しになっている。

「チサ、大丈夫だから」

 それだけじゃない。淡い外からの光が肩紐がひっかかる肩の白さと、汚くえぐれた傷口の赤色を照らしている。私がなにをしたか、知らしめるにはじゅうぶんだった。

 白い首筋が上下する。真っ赤な手の跡が残った、細いのど。まるい曲線を描く顎のうえにちょんと乗った二つの唇のなかで、ピンク色の舌が震えている。

「だいじょうぶだから、ね」

 なにも大丈夫じゃないことは、見れば明らかだった。全身のあらゆる感覚器官がこれを現実だと告げている。あの悪夢が終わったことを諭している。そして、あの悪夢の最後の行いが、私自身から生じたことも。

 コギトは最後に私自身の願いを叶えたのだ。はじめからこうしたかったのだ。それをコギトが引き受けたのだ。私の醜い欲望を――アリスのすべてを知りたいという欲望を叶える手助けをしたのだと。

 私とアリスはコギトを追い払おうとしていた。じっさいに、追い払うことはできただろう。いま、教室の床に落ちる影がアリスのものだけじゃないことがその証拠だ。私自身も、なにも不足感を抱いていない。けれどコギトは、ただ負けるつもりはなかったのだろう。私の手でアリスを傷つけさせるという、致命的な反撃を残していったのだ。

 だが、コギトの仕業だと割り切ることはできなかった。口のなかに残る肉の味を、私はまったく気持ち悪いと感じていない。あの夜の最後と同じように、私は、満たされている。それが、怖い。気持ち悪い。

「泣かないでよ」

 腕のなかで苦笑されて、ようやく涙が出ていることに気がついた。手の甲でなんども顔を拭う。そんなことをしている場合じゃないと気づいて、息が詰まる。

「私、わた、ごめん、ごめんなさいアリス、私のせいで、こんな」

「大丈夫だから」

 アリスの指が頬を撫でる。

「全部わかってる」

「こんなのが、私の欲望だったなんて、しらなかった」

「いいんだよ」

「でも」

「これからも、二人で分かちあうから」

 強い意志を帯びた瞳が私を捉える。アリスは息も絶え絶えに言った。

「他人には、チサが本当に殺人犯だと思われるかもしれない。軽蔑されるかもしれない。頭のおかしいやつだと思われるかもしれない。それでも、わたしは絶対にチサを信じる。なにがあっても、ぜったいに、離れない。だから、泣かないで」

「本当に?」

 みっともない声が出た。

「私が、みんな殺したって、アリスのことも殺そうとしたって言うかもしれないのに?」

「そのときは」

 額に汗を浮かべながら、アリスは胸を上下させた。

「最悪のときは、二人でどこかに逃げようか。きっと、どうにでも生きていけるからさ」

「いいの?」

「いいよ」

 私は涙をぬぐうと、鼻をすすった。顔を上げた。

「お願いします、救急車呼んでください!」

 私は男に向かって叫んだ。男は、それでもまだ呆けていた。

「はやく!」

 男はそれで我に返ると、慌てた様子でスマートフォンを取り出した。

 アリスは不出来な生徒を褒めるように、私の頭をなでた。これからどうなるか、私は目をつぶって想像しようとした。けれど、具体的なことは、なにも思い浮かばなかった。

 アリスのおなかに手を置くと、浅く突き刺さったバールが親指に触れた。アリスに似つかわしくない冷たさをいますぐどうにかして取り除きたかったけど、そうするべきでないことはわかっていた。

 アリスの手が、私の手の上に乗せられる。確かな熱が、そこにある。激しく内側から殴られる胸の痛みが、すこしだけやわらぐ。大丈夫だ、というようにアリスの手が私の手の甲を二回たたいた。

 永遠のような時間のあと、遠くからサイレンの音がした。

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コギト 犬井作 @TsukuruInui

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