4
アロマの香りが漂ってきた。濃い、甘いにおいを吸いこむと、体から少しずつ力が抜ける。熱い手が首筋に触れて、耳元でアリスの声がした。
「肩に手を置くと力が抜ける。息を、ふうっと吐きだして……」
そっと手を置かれる感触。
息をふうっと吐きだすと、腕がずんと重たくなった。
続けて胴体を、そして両脚に触れられる。順に、力が抜けていく。
クッションに身をあずけたまま、目をつぶったままでいると、体がどこにあるかだんだんわからなくなってくる。
「その感覚は、まるで体と意識がバラバラになっていくみたい」
ふわりと、離れていくと思った。
あの感覚だった。
これなら、わかるかもしれない――私が見たあの女は、本当のものか、そうじゃないのか。
仮説は二つ。心因性の症状か、一種の神秘体験か。これをいちどに確かめる方法が催眠療法だ、とアリスは語った。
催眠は技術であり、被暗示者の意思が噛みあえば、専門家でなくてもある程度効果を発揮する。治療行為としての歴史は古く、第二次世界大戦後のアメリカでは、心的障害を負った帰還兵の治療に用いられた。
アリスが提案した試みは、古典的な催眠誘導にエスペホが用いた技法を組み合わせ、その結果から仮説を検討するというものだった。
もし催眠だけが成功すれば、心の枷となっている過去のある瞬間に意識を戻し、過去を追体験することができる。これは神秘体験説を否定する根拠となる。
もしエスペホの技法が成功すれば、神秘体験説の根拠となる。
「うまくいかないかもしれない」始める前、アリスは不安そうに語った。「本来は素人がすることじゃない。催眠は再現性の薄い技術であって、神秘思想を検証するために使うべきものじゃない。しかもただ実践するんじゃなくてアレンジも加えるのだから、なおさらどうなるかわからない。人体実験をするようなものだよ」
けれど、アリス以外の誰かにこんなことを話す自信はなかった。
「どうなっても、二人で分かちあえば、きっと大丈夫だよ」
私はそう頼みこみ、アリスは申し出を受け入れた。
私以上にアリスは私を気遣ってくれていた。だからこそ、提案をしながらも気乗りした様子を見せなかった。その葛藤に応えたかった。
「思い出して」とアリスが言う。「太陽はひどく眩しかった。空はとても澄んでいた。あなたの体は、そうあるべくして動いていた」
言葉を受けて、イメージを浮かべる。
太陽、空、青、体、「秩序」。
声が思考に重なるように響いた。その途端、まぶたと指先がピクリと動いた。ぐっとみぞおちの辺りを押される。
「離れていく」
重力に従って意識だけが遠のくのを感じた。糸がほつれる感触がした。私を私に定める鎖を編んでいた鉄の糸という理性が思考の制御を開放する。「ただしい秩序に意識が落ちる」水が顔にかかる。冷たい。触れたのは「湖面。体だけがそこに浮かんでいる。背後に広がる深い闇に、意識だけが沈む。それがあなた」。声が思考に重なり、これが誘導されるということか、と感心した雑念があぶくになって溶けていく。意識だけになる。「私は私に近づいていく」。
「光が見えるよ」声が指差す先へと意識を向けると底に漏れ出す光があった。「それは真実。影と光のつながり。向かう、落ちる、沈んでいく」。
光が近づく。「なにかが見えてくる」。怖い。「おそれは影に溶けていく」。私は雑念を振り払う。「光に触れる」。
いま。
光が見えた。
そこには私が映っている。蔦――いや、これは蓮だ。悟りの湖畔に咲き誇る花弁が縁取る鏡が真実を写し取っている。
「私がいる」
そこに、私がいた。
「あなたはなにを見たの?」
「私は……私を見ているよ」
「そこにいるあなたは本当のあなた?」
ろうそくが揺れた。私と、私の間にいつの間にか灯されている。それは暗闇を押しやるあたたかい光。影とともに虚飾を剥いでいく。
「あなたは本当のあなたを見ている。そこでは、すべてが裏返しになっている。<感じなさい。>剥がれ落ちる虚飾の皮の下にあるおのれを見なさい」
額からまっすぐ下に鋭い痛みが走った。瞬きをすると、鏡のおもてが波打っている。ここがつながりだと理解していた。
手をのばす。頬に指を当てる。私があわく微笑んでいる。
私? いいや、違う。その首筋には真っ赤な手のひら形のあざが残っている。あいつだ。
「本当のあなたはなにをしたい?」
「私がしたいのは――」口走りそうになって唇を噛む。痛みが遠い。輪郭がおぼろな私は醜く笑っている。鏡に映る、私の肩に手を置く影をまっすぐ見ている。
これは違う。だめだ。
アリス。
唇を割いた犬歯が、その鎖骨の味を想像して震える。アリスはなにも気づかない。私がなにに耐えているか。本能が警告する。欲望は罠だ。あいつに付け入る隙を見せるな。
「我慢しなくていい。あなたの苦しみを取り除けばいい」誰も止めやしないのだ。「ここにはいるのはわたしたちだけ」声が思考を後押しする。波打つ鏡の向こう側に、私に重なっていた手のひらが動いた。
アリスの吐息が静止したとき、私の手首は強く引かれた。冷たいけれど隙間のない水に触れる。水銀のなかで息ができない。
顔を上げると、鏡の向こうがわへとあいつが出ていこうとしていた。
私そっくりの女は薄くほほえみながら、すーっと魚が泳ぐように空中を動いていた。真実を照らすろうそくが揺れ、影の炎が続いて揺れた。私そっくりの顔をした女は溶液のなかをさっと泳ぐと、ゆっくりと私のおなかに入っていった。額から、胸、それからつま先まで。私の中で、そいつは私のすべてを味わう。存在のための根拠を手に入れる。影の世界で生きるためには影の質料が必要なのだと、本能が囁いている。内側をなにかが這い回る感触がして、背筋にぞくぞく寒気が走った。それから、ずるりとくうなじからなにかが出ていった。小腸が脊椎をレールにして放り出されていくとしたらこんな感触だろう。息もできずに、うずくまって、ただ耐えていたら、ぷつっと感覚がうすく引き伸ばされていった。
くらくらする。
目を開けていられない。
だけど後ろにはアリスがいるのだ。
「アリス――」
振り向いたとき、そいつが、アリスに覆いかぶさろうとしていた。
そいつは振り向くと薄笑いを浮かべた。
「私に任せてよ。ぜんぶうまくいくからさ」
怒りで意識が燃え盛った。私は女に向かって体をぶつけると、そのまま押し倒して、首に両手をかけた。
女は目を見開いていた。
なぜだ、とその目は訊いていた。
「渡さない。誰にも、アリスを渡したりなんかしない。アリスは私のものだ。私だけのものだ」
女は悲しそうに目を細めた。
「おまえなんか、いらない。アリスは誰にも渡さない」
私は女の首を絞めた。女は苦しそうにもがいた。お腹が蹴られ、宙に浮く感覚がした。呼吸が止まってむせ返る。顔を上げると、女はよろよろとベッドの上に立ち上がる。
そのお腹から黒い糸が伸びていることに気づく。糸は途中で白に変色し、私のほうまで続いている。着ていたパジャマをめくりあげると、糸は私のおへそにつながっていた。
糸を握ると、女は目に見えて顔色を変えた。構わず糸を引っ張ると、私そっくりだった肌がほつれ、その下から黒い影が見えた。
糸を引き続けると私そっくりだった女から、私を模していた表面だけがほどけていった。黒い塊は、怯えた様子でほつれていく自らを抱きしめる。苦痛を耐えるような声を黒い塊は漏らした。
ピンと糸が張って、手応えが止まった。私と女の間をつないでいた糸は、限界まで引き伸ばされて空中で軽く振動していた。すでに恐怖はなくなっていた。怒りがあった。あの黒い塊と私との繋がりを許したくなかった。
私は糸に歯を立てた。味のない繊維質は硬かった。前歯を食いこませると、黒い塊が悲鳴を上げた。
それは死にゆく魚の声
酸欠で、音のない
不可逆な、
運命
二度三度と歯を立てる。硬い繊維質を前歯でこする。口のなかで、不意にプツリと音がした。黒い塊は大きく身体をのけぞらせた。のけぞった上体は弧を描いてかかとに触れると、塊は溶けて、液体のような形になった。
不定形となった影は窓にへばりつくと、わずかな隙間から外へ消えた。夜にまぎれて、すぐ見えなくなった。
息を吐く。
体が熱かった。
もう大丈夫だよ――
アリスに向き直る。
目が離せなくなった。
細い肩を包む寝具の首筋。
むき出しの鎖骨。肌。
私の目はおかしくなった。ひどく渇いていた。耐えがたい渇きだった。速度を取り戻す世界のなかで喉はカラカラに涸れ細り砂漠の熱砂にひっかかれたような痛みがした。
アリス。
熱のままに体が動いた。
「チサ……?」
耳元で、戸惑った声が聞こえたとき、私の体はついに沸騰した意識とともに理性を手放した。柔肌に己を食いこませると、熱が戻り、音が目覚め、愛おしい声が驚喜を漏らした。私はアリスの首筋に歯を立てながら、甘い肌を貪った。
そして、目が覚めた。
上体を跳ね起こして、息を整える。全身が硬い。辺りを見回すと、ベッドの横に鏡はなく、ろうそくも見当たらない。
レースのカーテンの向こうからは鳥の鳴き声が聞こえた。朝だった。
「夢……?」
「んう……おはよう、チサ……」
眠たげな声が隣から聞こえて顔を向けると、隣で寝ていたアリスがゆっくりと体を起こすところだった。
おはよう、と言いかけて、口がしまらなくなる。
ぐっと伸びをしながら、アリスはどうしたの、と尋ねるように私を見る。その肌はなににも隠されておらず、その首筋には、真っ赤な歯形が生々しく刻まれていた。
大声を上げて飛び退いた。
「なんで」
アリスはぽかんと私を見ていた。ベッドから落ちそうなくらい距離を取っているのが、不思議な様子だった。くび、くび、と言おうとして、唇はぶるぶると震えた。声が出なくて、指差すと、アリスはようやく自分の体を見下ろした。
眠そうなまぶたが次第にぱっちり開いていく。
「あーっ……半覚醒だったんだね……」
「な、にそれ。あれ、ゆ、夢じゃな、いの」
なんとか声を絞り出す。アリスは申し訳なさそうに、なぜだかいたずらを見咎められた子供のように、目をそらし、ええと、とか、その、あの、などと言いよどんだ。
「深く催眠にかかりすぎたんだと思う」アリスはうさぎのぬいぐるみを抱きかかえて、体を隠した。「我慢していたことを取り除くような暗示がエスペホの技法にはあった。だからもしかしたら、トランスに入っていたチサの意識が、いつも我慢していたことを我慢しきれなくなったのかもしれない」
「それで寝ぼけたまま……」
欲望をぶちまけたというわけか。
「寝ぼけてたんじゃなくて、催眠にかかったまま体が動いたんだよ」
アリスは訂正したけれど頭に入ってこなかった。
自分がしたことを想像する。なにひとつ相手のことを考えることなく、アリスを押し倒した姿を想像する。おもむくままに、動いただろう。一方的に。
なにをしてしまったのかを了解して、全身から血の気が引いた。
くらくらしながら、立ち上がる。
こんな女がそばにいてはいけなかった。
「ごめ、ごめん、こんなこと、気持ち悪いよね。ほんとうに、ごめん、私――」
「チサ、待って!」
呼び止められて、動きが止まる。その拍子に今までよく見ずにいたアリスの首筋から胸元にかけていくつも刻まれた歯形が目に飛びこんできて、罪の意識が揺さぶられる。吐きそうだ。アリスはしかし、耳まで赤くなりながら首を左右にぶんぶん振った。
「あのね……イヤじゃ、なかったよ」
「……え?」
「だからっ……イヤじゃなかったの! アリスも、そのっ……好きだから。チサのことが、すごく。だから、驚いたけど……嬉しかった。我慢しきれなくなってくれたんだって」
アリスは恥ずかしそうに、うさぎの後ろに隠れながら言った。
「だから、気持ち悪くないよ。わたし止めなかったもん。それともチサは、わたしの……体だけほしかった?」
「ち、違う! そんなことない」慌てて言い訳した。声が震えたが、今度は罪悪感のせいではなかった。緊張で、爪先までガチガチになった。「アリスのこと、ずっと好きだった。好きで、……私だけだと思ってた」
アリスはうさぎの後ろから顔を出すと、うれしそうに頬をゆるめた。
「わたしも好き。だから……その……いっしょになって、くれますか?」
「もちろん。こ、こちらこそ、お願いします」
なんとか言い切って、頭を下げる。ぐい、と手を掴まれて、ベッドのうえに引き倒された。衝撃はなかった。私の肩を細い腕が支えていた。アリスは私を抱き寄せると、マーキングしていくように首筋に、胸に、なんども口づけしてくれた。
夢じゃなかった。最後に聞いた驚喜の声は、本当に合ったことなんだ。
「チサ」アリスに頬を包まれる。「もう一回する時間、あるよね」
当然、とうなずくと、ぶつかりそうな勢いで、アリスの唇が私にふれた。
甘く柔らかな唇をむさぼる。むさぼりながら、むさぼられる。
幸せを感じた。けれど、なぜか、どうしてだか、人生でいちばんうれしい日のはずなのに、坂道で躓いたような嫌な予感がぬぐえなかった。
そして、その予感の通り、悪夢が始まった。
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