3
アリスは私の話を注意深く聞いていた。うなずいたり、相槌をうちながら、ときおり本棚に目を走らせた。本棚には様々なジャンルの専門書が並んでいる。どれが最も適切か判断しているのだろう。
「確認するね」アリスは私が言い終えると、トピックに合わせて一本ずつ指を立てていった。「まずチサは体と意識の乖離を感じた。体が勝手に動いていった。しばらくすると、チサは自分の視点が肉体を離れて、体を後ろから見るような位置にあると気づいた。そしてチサは、チサと同じ顔をした女を見た。そしてその女に恐怖を抱いて、首を絞めていた。ここまで、合ってる?」
頷くと、ふうむ、とアリスは息を吐いた。
「話を聞くかぎりではいわゆる離人感だけどオカルトっぽくもある……んー……なんだろうねえ……」
アリスは枕元にあったうさぎの大きなぬいぐるみを抱き寄せると、耳のあいだに顔をうずめてしばらくうなった。
「ちょっと待っててね」
よろけながら立ち上がると、アリスはベッドの側面に立てかけていた鞄から本を取り出した。背表紙をおおう指の隙間から、心理学とか催眠療法という単語が見えた。アリスはその本の特定のページを開いてベッドに放ると、本棚に向かい、ぶ厚い本を二、三取り出し、手慣れた様子でページを開く。
目の前に置かれたページに目を走らせるとアルファベットがびっしり並んでいた。
「今度の興味は心理学?」
持ち上げて表紙を見てみると、アリス書棚、と表紙の最下部に印刷されていることに気づく。いままで本のカバーだと思っていたけれど、これはアリスが印刷して製作したものらしい。よくデザインされていて、アリスの才能をひしひし感じた。
「親戚にお医者さんがいたから、このあいだ学会に連れて行ってもらったの」
「よくそんなにいろいろ調べられるね」
「えらいでしょ」
「うん。すごい。ラッキーだった」
「たしかに。ちょうど調べてるタイミングでよかった」
なにか興味を抱いたらとことんまで調べて、飽きたら次の興味を調べる。それがアリスの習性だった。知識の深度は本人曰く専門家には及ばないそうだが、ずぶの素人から見たら、専門家に聞けないときに頼れる程度には理解度が高い。この一年で私のテニスの成績が向上したのも、アリスのアドバイスあってのおかげだ。
「離人症は強いストレスや過労でも引き起こされることがあるの」アリスは本をベッドの上に並べていった。「この一ヶ月チサは自分を追い込んできた。つまり強いストレスがかかっていたから、離人感を抱く原因はある。でも……練習中はそういう感じしなかったんだよね」
「なかった。毎日八時間は寝てたし、いまもそんなに疲れてないよ」
「体力おばけだなあ」アリスは感心して続ける。「熱中症になったせいで、離人感を抱くに至った。そういうことはあるかもしれない。でも……」
アリスは鞄からノートも引っ張り出した。開かれたページにはプラスチック製の透き通った色のポストイットが無数に貼りつけられていて、ステンドガラスのように美しかった。
「やっぱり……離人感を抱いているときに幻覚症状を見たり、その幻覚に触れたりなんてことは、調べたかぎり、例を知らない……もちろん本職にきかないとわからないけれど」
「つまり?」
「わたしの知っている限り、離人症とか過労じゃ説明がつかない」
「じゃあなにもわからないまま、か」
アリスの本の横に体を投げ出す。アリスは私の横髪を耳にかけながら首を振った。
「そうじゃない。少なくともチサの悩みは部分的に解決した。なにもわからない状態から、チサの症状は一般的な離人症とは異なる、ということまでわかったでしょ?」
「ものはいいようって感じがするけど、それはそうだね」
「事実確認の次は仮説の立案だよ。こういうのは根気勝負なんだから」
アリスはいきいきと語りはじめた。
「チサが見たものは離人感覚で説明できないと決まったわけじゃない。脳は理解できないことを説明するために感覚を捏造することがある。もしかしたら熱中症で倒れている間に見た幻覚を本当に起きたことだと錯覚しているかもしれない。つまり仮説のひとつめは、心因性の症状が幻覚の正体だ、というもの」
「脳が感覚を捏造って……そんなのある?」
「錯視がいい例だよ。本当は動いていないものを動いていると認識する。錯視だと知らなかったら、錯視かどうか気づかないんじゃないかな」
「んむ……たしかにそうか」
子供のころに遊園地で、手前にいるほど巨人に見えて奥にいるほど小人に見える部屋に驚いたことがある。トリックアートだと知るまでは、あの部屋に入ると重力が歪むとかして、本当に大きくなるのだと思いこんでいた。
「もう一つの仮説はなにも錯覚ではなかった。チサは本当に、チサそっくりの顔をした女に出会った。そう考えて見ることにしようか」
非科学的すぎると反論しようとして、この仮説こそ自分が主張していたことなのだと気づき、口をつぐむ。
「科学的に考えるなら、こちらはオッカムの剃刀で刈るべきものになる。チサの感覚がすべて正しいならば、精神的にか物理的にかはわからないけど、チサは本当に時間が遅れた世界に行ったことになるし、そこで本当に自分そっくりな女に出会ったことになる。仮定が多すぎるから、科学的にはありえない。けどオカルトで捉えたら話は別だ」
「オカルト」予想もしなかった言葉が出てきて思わずオウム返しをしてしまう。「オカルト、ってあの都市伝説雑誌みたいな」
「そういう系じゃなくて神秘思想。ある出来事は、それを捉える視点を変えるだけで異なる説明を真とする。科学は雷を電子の移動として捉え、神話は神の行為として捉える。チサの体験も異なる説明が可能なの。もっともしょせんはオカルトだから、科学で説明できることを誤認しているだけのありえない仮定だと思って聞いてもらいたいんだけど……」
「アリスの考え、聞かせて」
「自らの中にいるもうひとりの自分と遭遇した体験は、チリで活動していた神秘家フェニックス・エスペホによって語られてるんだけど、それがチサの体験によく似ているの」
アリスは広げていた本の一つを押し出す。サッと目を通す。こう書かれていた。
「『私は鏡を通じてもうひとつの世界を知った。そこはすべてが裏返しだった。だからそこに真実があった。私は鏡に尋ねた。お前は誰だ。鏡は答えた。私はお前だ。真実のお前だ。影の街に生きるお前の目には、私が光に見えるはずだ。光を受け入れなさい。私こそが真実だから』……なにこれ?」
「エスペホの自伝。この箇所は、神秘体験を語ったパートだね」
感心して手をのばす。ふわふわ髪をわしゃわしゃ撫でる。アリスは頭を揺らしながら言葉を続ける。
「エスペホは大学で物理学を学んでいた。空間について研究をしていたけれど、あるとき神秘思想に目覚めた。彼は大学を去ると占星術師や呪術師と対話を重ね、修行を始めた。そして十ヶ月と十日が過ぎたある雨上がりの朝、鏡のように世界を写す水たまりを覗きこんだとき、コギトと出会った」
「コギト……」聞き覚えのある言葉だった。「デカルトだっけ?」
「そう。『我思う、故に我あり』ってやつ。コギトはラテン語で、自己意識という意味を持つ。エスペホはコギトを、真実の自分という意味で用いている。エスペホは鏡の向こうの世界こそを真実だと直感した。そのため出会ったもう一人の自分こそが真実の自分だと語っているの。私はコギトと交流し、現在用いている本当の名前を手に入れた、ともね」
エスペホの自伝を覗きこみながら、アリスは該当の文章を指差した。
「つまり、エスペホは元の名前を捨てさっているわけ。これ、エスペホが鏡のなかの自分と入れ替わってしまった、とも言えるよね」
「コギトと……入れ替わったからこそ、鏡の世界を本当の世界だと主張するようになった、っていうこと?」
「エスペホが本当に鏡のなかの自分と入れ替わったかどうかはわからない。けれど、そう解釈すればチサの体験を説明できる。この世界にはこの世界の裏返しのような異世界が存在している。その世界にはわたしたちのそっくりさんが存在していて、わたしたちと入れ替わろうとしている。チサは一ヶ月のあいだ自分を追い詰めた。それがエスペソが行った精神修行にあたる行為となった。そしてどういう原因でか、裏返しの世界に行ってしまった。だからそこで出会った自分を自分じゃないと感じたし、身体を奪われると思ってしまったんだよ」
「それなら、筋が通る気がする」
「しっくりくる?」
「うん。あいつが私の身体を奪おうとしていたって感覚に、ピッタリ合う気がする」
「なら、こっちの仮説が正しいかもね。今回はチサの感覚が大事だもの」
アリスは息をついた。
「仮説をたしかめることができればあとは完璧なんだけど……」
「できるの?」
アリスは控えめにうなずいた。
「あまり気乗りしないんだけどね」
「ここまできて、それはないでしょ」
強く言い返すと、そうだよね、とアリスは苦笑した。抱きしめていたぬいぐるみを手放すと、居住まいを正し、部屋の隅に立てかけられたものを指差した。
闇にまぎれて視界から隠れていたそれは、蔓の紋様に縁取られた大きな鏡だった。
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