2
バスを降りると、ベンチにアリスが座っていた。アリスの明るい栗色の髪は夕焼けに染まり赤くなっていた。両手で本を持って熱心そうに読む姿は、食事に集中するハムスターのようだった。
背後でブザーが響き、のっそりとバスが発車する。アリスはようやく顔を上げて、私を見るなりびくりと跳ねた。
「うわっ、いつから?」
「さっき。うわ、じゃないでしょ」
「いや、びっくりするって。黙って立ってるんだし」
「ごめん。見とれてた」
「からかわないでよ、もう」
アリスは本を閉じると鞄にしまいこみ、入れ替わりに保冷バッグを取り出す。中から出てきたのはかき氷っぽいアイスキャンディ。アリスはぐいと突き出して、先端を私の頬に当てる。一瞬でアスファルトに残る暑気を忘れた。
「チサのお母さまから。それと伝言。『大会お疲れ様。見に行けなくてごめんなさい。話したいこともあるけれど、今日はお泊りでしょうからからアリスちゃんに任せて先に帰るわ。ゆっくり羽を伸ばしなさい』」
「そっか。あずかってくれてありがとう」
「わたしからも、大会お疲れ様」
「ありがと」
アイスを口にくわえると、ソーダのかおりが口のなかに広がった。
「体調はどう?」
「へいき。ありがと」
「歩きながら食べよ」
「うん」
アリスは私に腕を絡めると、行こ、といって引っ張った。少したたらを踏んで、すぐに歩調を合わせて肩を並べる。風のない夏の空気に、ふわりと漂ったキンモクセイのような甘いにおいがただよう。久しぶりだ。そう思って、思いのほかこたえていたことに気がついた。戦闘的な気持ちを維持するために、大会が終わるまで会わないことを約束したのが一ヶ月ほど前。試合に向けて心身ともにテニスに特化させていくあいだは時間なんて気にならなかったけれど、思い返せば、本当に長い一ヶ月だった。
歩きながら雑談をする。一ヶ月離れているあいだのお互いのクラスの様子。最近あった嬉しかったこと。大会と日付がかぶってしまって見に行けなかった、アリスのピアノの発表会。
大会の話題は出なかった。
きっとアリスは私がひどく悔しがっている、と思っているんだろう。せっかく決勝戦まで進んだのに熱中症で負けたのだ。負けず嫌いの幼馴染のことだから、自分を責めているに違いないと。たしかにいつもならそう思っていただろう。けど本当に、結果事態に悔いはなかった。去年は大会に出れただけ。一勝もできなかった。体調を崩して倒れたのはただの管理不足だからこれから頑張ればいい。なんなら冬の大会もあるのだ。落ち込んでいるヒマはない。
負けたことは気にしていない。そう言えばいいのに、言えなかった。言えば質問を重ねられるとわかっていたからだ。
ありえないはずのことを正しいと感じているとき、どう対処すればいいのだろう。
ふつうに考えれば、あのとき見たものは夢か幻なのだろう。だけど夢や幻は記憶と違い、なにかが欠けていたり、どこか地に足のつかないような違和感があるものだ。すぐ薄れゆくとか、匂いに欠けるとか。だが、あの体験にはそれがなかった。あのときたしかに私は私の顔をした女の首を絞めたし、手の中にはその感触が残っていた。そのうえ、私は被害者としての感覚もまた記憶していた。
抵抗できない強さで首を押さえつけられて、息が止まり、酸素と血液を求めて脳が呼吸を求め、じわじわと意識が薄らいでいく。首を絞めたのは私だったのに、私が首を絞められていた。明らかに不自然な体験だった。
そもそも、あの女は本当は誰だったんだろう。
私のなかにもうひとりの私がいるとでもいうのか?
夢でも幻でもないのなら、ありえるはずのないことなのだ。そんなことに納得いく答えなんて出るはずがない。考えるまでもないことだった。なのに、なんだったのかと考えてしまうのは、それが起きたことであるとしか思えないからだ。考えるだけむだだとわかっていても考えてしまう。
ああ、くそ。
喉もとまで声が出かかった。理解しがたいことが起きて、それが久しぶりの二人の時間に水を差している。しかも消極的ながら、私はアリスに隠し事をしている。理不尽で、イラつく。
「チサ」
ペシンと眉のあいだを叩かれる。
忘れていた暑さと、隣を歩く気配を思い出した。
「また難しい顔して。それ、アリスのことより大事なことなの?」
アリスはかがんで、上目遣いに私を覗きこんだ。ワンピースの首元から露出する鎖骨から目をそらす。可愛らしい態度と裏腹に、くりくりした目は不満と気遣いを表明していた。
「また噛んでるし」
細い指が私の口からアイスをうばった。アイスはとっくに溶け切っていて、棒の先端は折れてぎざぎざの繊維が見えていた。何度も噛んでしまっていた。
「愚痴きくよ?」
「いいの。思い出してただけ」
慌てて言い訳する。アリスに嘘は言いたくない。本当になにがあったか聞かれたら、全部話してしまうだろう。そのことで、せっかくの時間をへんな空気にしたくなかった。
「ほんとに? 二人でひとつ、だよ?」
「ほんとに大丈夫」幼いころに交わした約束の言葉にうなずく。「ちゃんと二人で分かちあうから。でもいまは、アリスとの時間を大事にしたいんだ」
「一ヶ月ぶりだし」アリスは口元をゆるめた。「たっくさん遊ぼうね」
嫌なこともそれで忘れちゃおう。言葉にされなかった意図を察して、私は大きくうなずいた。
二十分ほど歩いてアパートに着いた。住宅街の入り組んだ道のなかに埋もれるような建物なのに、道路沿いに並んだプランターには色とりどりの花が咲いている。アリスは花に駆け寄ると、顔を近づけ、よしよし元気だったね、などと声をかける。ひとしきり健康診断を終えるとアリスは膝をはらいながら立ち上がり、私に微笑みかけてくる。
「おかえり、チサ」
「ただいま、アリス」
二階へのぼる階段の脇をとおって奥へいくと管理人室がある。それがアリスと私の秘密基地だ。
アリスの家系はもとは地主で、いまも多くの財を有している。このアパートもその一つだ。すこし古い、趣のある建物をアリスは気に入り、学校にも近いからと高校進学を機に一人暮らしをはじめた。
他の住人がちょうど退去するタイミングだったから、近所トラブルとは無縁の環境。
そんな場所で二人きりだ。一ヶ月ぶりということもあって、いつもよりも大声で、いつもよりもはしゃいでしまった。
デリバリーのLサイズピザを二枚もシェアして、二人でシューティングゲームをしてひどい出来のサメ映画を見た。ときに大声で騒いで、笑った。久しぶりに心の底から楽しいと思えた。
それなのに、不意に、私はわたしそっくりな女のことを思い出した。楽しくはしゃげばはしゃぐほど、言葉と言葉のあいだに切れ目ができて、沈黙が訪れた瞬間、手の中にのこる喉をつぶす感触と同時に喉の圧迫感を思い出したり、あるいは肉体と精神が乖離していく非現実感を感じたりした。
意識してはいけないことほど意識してしまうものだ。
アリスはそれを見抜いていたのだろう。お風呂を上がり、ベッドにあがって明日の予定を話しあおうとしたとき、アリスはおもむろに切り出した。
「それで、本当はなにがあったの?」
「本当はって……なにが?」
「大会」
逃げるように視線をさまよわせる。
あたりは暗く、明かりがついているのはこの部屋だけ。アリスの私室兼寝室は、本棚と化粧台と、キングサイズのベッドに埋められている。部屋はぬいぐるみの王国でもあった。子供のころから集めてきたという、多種多様の動物たちが、私とアリスを見守っていた。
どこにも視線の逃げ場はない。
時計は、午前一時過ぎを指している。深夜の澄んだ空気は、夕暮れ時よりもいっそう鋭利に声を響かせる。
「別に、なにもなかったよ」
「嘘ね」
アリスは溜息をついた。
「ずっと悩んでるじゃない。わたしに話せないようなことなの?」
「そうじゃないけど……」
「なら、なんで? わたしじゃ頼りにならないから? それともそんな話をする間柄じゃない?」
「そうじゃないんだ。本当に」
目をそらすと、アリスはまわりこんできた。また目をそらし、また回り込まれる。いたちごっこになった。
「もう!」
アリスはじれったそうに口をへの字に曲げる。
「そんなに話したくないなら言ってあげる。チサはなにか信じられない体験をした。大会の決勝で、たぶん誰かに会った。それで、なにかひどいことをされたか、したかして、そのことをずっと忘れられずにいる。本当に起きたかどうかもわからないからわたしに相談もできない。どう?」
言い当てられて、放心する。見ていたのかと思ったが、そんなはずなかった。考えを読んでいるかのようにアリスは言葉を重ねた。
「チサが思ってる以上にわたしはチサのことを見ているの。だいたい気づいてないかもしれないけれど全部体に出てるから」
とっさに顔を触る。
「体だ、って言ったでしょ」アリスは息を吐いた。「列挙するだけでもわかりやすいわ。一、音が途切れるとチサは誰かを気にした様子であたりをうかがった。二、そのときに限って手はピクリと動き呼吸は浅くなっていた。三、その前後では口数が減ってぼんやりしているようだった。いま起きてることに集中できず、なにかを思い出していたと考えるにはじゅうぶんじゃない?」
チサは私の手を握った。
「どうにもならないと思っていることほど相談してよ。チサが苦しんでるのに、なにも頼られないほうがイヤだ」
「ごめん」
つらさを滲ませるような声に反射的に謝る。
そうじゃないと思いなおして、言い直す。
「ありがとう。心配してくれて。はっきり言ってくれて」
私は言葉を選びながら、できるだけ正確に、今日あったことを体験した通りに話した。
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