18

 黒い矢は塀を壊し、門を壊し、電柱に刺さり、電線を千切った。まるで銃弾のような暴力なのに、人のいない家屋からは悲鳴ひとつ上がらない。黒い矢も、瞬きすれば消えている。はじめからそうであったかのごとく、

 本来あるべき反応の欠落は、私が確かに感じている恐怖から現実感を削ぎ取る。息せき切って走っているこの現実が、嘘なんじゃないかと思わせる。

 感覚は半分正しくて半分間違いだ。ホームセンターには他人がいた。だからあれは確かに現実だったはずだ。それなのに、今は街に誰もいない。地区全体が団体旅行に出かけてでもいなければ考えられない。だからこれは、コギトが見せる夢の一種だ。

 けれど、この状況は夢なんかじゃない。私は確かに命を狙われている。コギトに、私の半分を奪った敵に、残る部分を奪われそうになっている。嘘のような現実だが、私は確かにいま戦っている。生きのびるための戦いを。

 最初の達成条件は、目的地までコギトを誘導することだ。一人で戦うこともできるだけど、それは勝ち目の薄いギャンブルだ。そうするよりは、狙いを定めて、背中の行先を縫い止めよう。

 あわてて、視界の端に見えた空白地帯に飛びこむ。頭上を矢が通り過ぎ、塀に突き刺さった。立ち止まり、ふたたび矢をつがえる。

 ポケットを探るとハンマーがあり、手にはクロスボウなど持っていない。

 なめらかに体感する私のものではない感覚と思考に生じた戸惑いを深呼吸で落ち着けながら、邪魔な疑問を取り除く。

 考えるまでもなく、いま感じたのはコギトの行動だ。それが、流れこんできた。コギトが私の半身なら、あいつの感覚は私の感覚でもある。だからだろうか?

 私はクロスボウを構えて、どうするのが一番か考える。顔を振って、自分自身の感覚に集中する。気にしないようにすることが一番だろう。歩きながら、視界を巡らす。

 路地は行き止まりのようだ。正面には見知らぬ家がある。昭和に作られたと思わしき、すこし古ぼけた二階建ての和洋折衷。おそらく、裏側に庭があるだろう。抜けることができるかもしれない。

 そもそも、ほかに選択肢はなさそうだった。

 入口のドアノブを回すとあっさり扉が開いた。靴を脱がないまま、たたきから玄関にあがる。左右にすりガラスの扉があり、正面には階段と木製の扉が並んでいた。

 直接中庭に出ることができないか確かめようと、正面の扉を開ける。すると、薄暗がりのなかに私があらわれる。咄嗟にポケットのハンマーに手をかける。目の前の私もポケットに手を欠けた。それで鏡だ、と気づく。洗面台だった。

 緊張を解いた次の瞬間背後でガラスが割れ、突き抜けた矢が私を掠めて鏡の私に突き刺さった。ひび割れた鏡のなかで私がいくつにも分裂する。硬直した足を叩いて、考える前に右の部屋に入る。

 今度はリビングだ。中央には白いテーブルが置かれていて、四人分の椅子が並べられている。部屋の奥は一面が窓になっていて、正門に立つ黒い影が見えた。

 右手に力が入ったので頭を引っ込めると、ガラスが割れてすぐそばに矢が突き刺さった。左肩に鋭い痛みが走った。見ると、矢は壁を貫通していた。防音もなさそうな薄い壁に汚い言葉を浴びせたい衝動を自制して、矢が消えるまで待ちながら部屋の様子を確認すると、カウンターのような仕切りが左手に見えた。暗くてよく見えないが、キッチンだろう。裏口があるはずだ。玄関を通り過ぎて、私は私の背中に矢を構える。

 部屋のなかに飛びこんで矢を避けつつ奥へ入ると、思った通り裏口がある。武器を棒に再整形しながら部屋の中に入ったので、とっさに目の前の戸を開く。三つ並んだ包丁のひとつを掴み、自分に向けて投げつける。脇腹に異物感が生じた。

 振り下ろそうとしていた棒を取り落しながら、私は四つん這いのまま奥へ向かう。ゴミ箱をどけてドアノブを引いて体重をかけると想像よりもはるかに軽く扉は開いた。転がり出ると、思ってたように庭に出た。

 植木鉢を蹴り倒しながら足の長い芝を走る。植え込みに入ると、背丈の長い雑草が胸のあたりをくすぐった。手探りに進むとガードレールの感触があった。跳び箱の要領で飛び越えると、あるべきはずの地面がない。しまった、と思ったときには落ちていた。

 運悪く左肩を下敷きにした。怪我を忘れていたせいで、ひどく痛んだ。ふらつきながら、右手で体を支えて立ち上がると、地面の切れ間から道路が見える。どこかの屋根に落ちたらしい。

 屋根の縁を歩いて降りることができそうな場所を探すと、隣家の屋根が接していた。とにかく距離を取るために、隣へ、隣へと写る。三つ目の丘を超えたとき、左手に交差点が見えた。川のせせらぎは聞こえないが、間違いない。アーチで隠れた道の向こうに、校舎の白い壁と正門に生えた木が見えた。

 何軒目かの天井から、その家の植え込みに飛び降りる。枝を折りながらみっともなく着地して、痛む足を引きずりながら、走る。

 無人の街に響く足音を聞きながら、どうしてそこまでするんだ、と思った。受け入れれば簡単なのに。本当の私を受け入れても私は私を見続けることができる。はじめから受け入れれば、こんなことをしないですんだのに。私は私の背中を見つめながら矢を構える。

 頼みもしないのに現れて受け入れろなんて、そんな不条理なことがあるか。跳び前転の要領で前に転がる。背中で弾けた道路の破片を受け止めながら、次の矢を受けるまでまた走る。

 不条理だから受け入れろというのに。ふたたび矢をつがえると、私はまた走り、打ち込むと転がった。矢を打ちこむと転がるから、二人一役のダンスのようだ。私をどうにかできるはずがないのに、諦めが悪い。

 諦めるわけがないだろう。ようやく橋を渡りきり、私は私の死角に入る。少しだけ立ち止まり、息を整える。私は私が立っていた屋根から橋を渡る私を狙撃していた。そんなこと、私にできるわけがない。本当の私だなんていうけれど、こんなでたらめな存在が私なはずがない。なにもないところから武器を生み出したり、人を食べたり、そんなの、ありえない。

 いいや、ありえる。私の疑問を私は打ち消す。この世界が機械的に作られていたら、世界はもっと単純だ。この世界がはじまった瞬間から、終焉はその過程まで計算可能だっただろう。けれど糸はたわみ、絡まり、ほつれ、思わぬ結び目をいくつも作った。肥大し縮む無秩序な秩序こそが本当のすがたなんだ。光あれ、と述べられる前、世界は混沌そのものだったのに。

「あなたは、取り戻したいだけなのか。自分が暮らしていた世界の姿を。だったら、私とは無関係のところでやってよ。たかだか百年しか生きない生き物にこだわらないでさ」

 まずはじめに言葉があったんだ。だから、私も言葉を使っている。混沌すら、混沌と名付けられる。無言語の世界は、本質的に存在しない。だから私を受け入れてほしい。それだけなのに、どうしてわからない? その代わり、私は私の願いをかなえるだけだ。

「そんなの、関係ない。頼んでないんだよ。これ以上話すことなんてない。消えてよ、いい加減!」

 叫ぶと、ふ、っと背中から気配が消えた。無限に続く入れ子のように生じていた、私を見つめる私を見つめる私が消えて、私を見つめる私も消える。私は私だけになる。べったりと、汗とともにまとわりつく夜が気持ち悪い。まるで、私の形を溶かすような生ぬるさ。夜が、駄々をこねる子供のようにスカートの裾を引っ張っている。

 これが正体なのかもしれない。そう感じた。本当なら、形などない、あれとこれとの区別がない世界そのもの。それが、なんらかの形で私を奪おうとしているのかもしれない。

 けど、確証のないことにかかずらってる場合じゃない。なんであれ、戦うだけだ。私は、私であり続けたい。

 首を振り、走り出す。私の気配は消えたけど、少しずつ、だけど確実に、コギトが私に近づいてくることはたしかだから。

 目指す先は、学校だ。そこにアリスもいるはずだった。

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