19
階段を上って二階へ出る。真っすぐの廊下には、しかし誰もいなかった。昇ってもいない月に照らされたように、長方形に区切られた道はその端まで青ざめている。
歩くと、足音は廊下の奥まで響いていった。まるで何人もの私がいるようだった。無人の校舎では、音を打ち消すものがない。いっそう濃さを増す夜に沈む廊下を走りながら、教室をひとつひとつ覗きこむが、どこにもアリスの気配はない。どこにいるか、わからない。予定では、この階で落ち合うはずだったのに。
「アリス、どこにいるの」
呼びかけても、返事はない。足音と同じように、声は跳ね返り、私があちこちから叫んでいるようだ。アリス、アリス、アリス――
声に足音が混じった。メトロノームのように硬い、私のものではない革靴の音。たしかな、他人の足音。逃げるような慌ただしさに焦りが生じる。
「アリス!」
跳ね返る声のなかを進むのは、粘り気の強い液体のなかを泳ぐようだった。麻痺していた痛覚が、次第に熱を思い出す。冷や汗が出る。足が重たい。それでも前に進む。足音が聞こえる三階へと、階段を登ると、無数の矢印が私を出迎えた。
左を指さす人指し指にしたがって向きを変える。そこにも矢印看板が並んでいて、廊下の突き当たりの薄暗がりを示している。
光が漏れていた。蝋燭のような赤い光。居場所を知らせるような、あからさまな光に躊躇を抱く。だが、声が聞こえた。その部屋から、苦しむような声がした。それから、なにかが砕けるような音。
そうしたら、考える前に走り出していた。
いくつもの矢印の脇を抜けて、用具室と掲げられた扉を押し開ける。無数の私が私を見つめる。その中心に、アリスがいる。万華鏡のように分裂したアリスが、何人もの影と戦っている。
影が振り下ろした棒をアリスはバールでいなしていた。防戦一方という様子だった。それもそうだろう。影が棒を振り下ろすたび、バールが少しずつへしゃげていく。ありえない馬鹿力だ。
「アリス!」
助けようとして、なにかにぶつかって押し返される。アリスを取り囲んでいた私は皆一斉に尻餅をついて額を抑えている。その瞬間に、アリスの手からバールが叩き落された。影はアリスの肩を掴むと、そのまま押し倒してマウントをとった。
私はそれをあらゆる角度から見せられる。アリスの怯える顔もアリスの震える足も押し返そうとする左手もハンマーにかけた右手も、押し倒して笑みを浮かべる私の顔も。
いつのまにか影は私の姿を取り戻している。
私はハンマーを投げつけた。すると目の前にいた私が砕けた。破片が飛び散り、靴下の上から足を切りつけた。鏡だ、とそれで気がつく。数え切れないほどの鏡が、部屋のなかに置かれている。まるでミラーハウスのように、戸惑う私がそこらじゅうに映し出される。
青ざめた世界のなかで、少女は迷子になる。出口を探るように、中へ、なかへと歩きだす。
これが夢なのか、現実なのか、ふたたび信じられなくなった。こんな場所が学校にあるはずがない。それなのに、目の前に存在しているのだから、あると考えるしかない。ありえないことを受け入れろと要求するのは、コギトの手口だ。また目をつぶって、息を整えればすべて見えなくなるかもしれない。だけど目の前で、私がアリスに覆いかぶさっているにもかかわらず、目をつぶろうと思えない。
影がアリスの首を押さえた。アリスは苦しそうに身じろぎした。息ができずに、足が空中でバタ足する。ハンマーを握る左手は手首から押さえつけられていて、抵抗を封じられている。私が一歩進むごとに顔色は悪くなっていく。蛸のように赤かった頬はしだいに色を失っていく。焦りが募る。はやく助けないと。そう思ったとき、声がする。
「あなたは本当のあなたを見ている」
記憶とそっくりの声だった。上からも、下からも聞こえた。あちこちから声が語りかけてきていた。
「ここでは、すべてが裏返しになっている。感じなさい。剥がれ落ちる虚飾の皮の下にあるおのれを見なさい。見えるものがまやかしで、ホンモノでもある世界を見なさい」
淡々とした声が内部の海を揺さぶってくる。
額からまっすぐ下に鋭い痛みが走った。
瞬きをすると、鏡のおもてが波打っている。その海が、私そのものだと直感できた。
手をのばす。頬に指を当てる。私があわく微笑んでいる。アリスに覆いかぶさろうとしている私は、心の底から喜んでいる。
「本当のあなたはなにをしたい?」
「私がしたいのは――」
口走りそうになって唇を噛む。痛みが遠い。輪郭がおぼろな私は醜く笑っている。鏡に映る、私の肩に手を置く影をまっすぐ見ている。
これは違う。だめだ。
アリス。
鎖骨の味を想像する。それはこの世のものとは思えないくらい甘美だろう。チョコレートやマシュマロ、プディングのような、私が知るあらゆるものよりも甘くて中毒的なはずだ。力をいれるだけで手に入るはずだ。
「我慢しなくていい。あなたの苦しみを取り除けばいい」
誰も止めやしないのだ。
「ここにはいるのはわたしたちだけ」
声が思考を後押しする。波打つ鏡の向こう側に、私に重なっていた手のひらが動く。その手に、白く細い指先が重なる。
アリスが私を見て微笑んでいた。
理性が警告する。欲望は罠だ。誘惑に引きずられる本能を押し留めて、このすべてに見覚えがあることを思いだす。
「本当のあなたはなにをしたい?」
繰り返される声は、頭のなかから聞こえてきていた。外ではなくて、耳に、直接。だからこれは、記憶なのだ。コギトが奪った私の半分、そのなかに、この記憶が含まれていたに違いない。
私はアリスの手からハンマーを奪い、私を取り囲む恍惚に呆ける私自身を殴りつけた。だるま落としのように軽々と私の頭は首から取れてぽーんと暗闇に飛んでいった。私はそれから鏡を割った。何枚も何枚も数え切れないくらい割った。鈍い痛みが全身に蓄積していく。まるで自分を殴っているような錯覚に陥る。それでも殴った。殴って、壊して、そうしてようやく世界は私とアリスと私に立ち戻る
振り向けば、そこにアリスに覆いかぶさる私がいる。アリスを押さえつけたまま、痛みで動けなくなった背中がある。足元に当たった硬い感触に目を下ろすと、それはアリスが持ってきたバールだった。
チサ、やっつけて。
アリスが私を見てうなずいた。もう、なにも考えなかった。私は拾い上げたバールを、私の背中に振り下ろした。
バールがやわらかい膜を破った。私の背中は縦一文字に裂け、そこからいっそう濃い夜が漏れ出た。それは拡散することなく、私に向かってまとわりついた。あの日から目を背け続けたあさましい欲望が全身に満ち溢れ、熱で意識が溶けていく。やがて世界は滲んで球形をとり静止した。世界に私とアリスだけになった。
抑えがたい衝動が私を突き動かした。ずっと忘れていた我慢の箍が外れて我を忘れた。私はアリスに覆いかぶさると、その首筋に歯を立てた。犬歯が肌を突き破り熱い液体が唇に触れた。吸いつくと、鉄の味に混じって、アリスの汗のにおいがした。
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