17

 陳列棚には大小も形状も様々なバールのようなものが並べられている。アリスはそこから手頃な長さのものを二つ取り上げて片手に一本ずつ持つと、くるくる手のなかで転がしはじめた。片方の先端が二股に分かれた鉄の棒はまさしくバールそのものだが、円を描くしろがねの軌跡はバトンのように軽やかだ。風を鈍く切る音がなければ、それがバールだとは思えないだろう。

 しばらくするとアリスは回転を止めた。どちらの人参が美味しいだろうかはかるように、バールを胸の前で上下する。

「どっちがいいと思う? こっちは軽くて、こっちは重たい。こっちは長くて、こっちはちょっと短い」

「……使いやすいほうがいいんじゃない?」

「フムン」

 ホームセンターの高い天井からは安っぽくアレンジされたポップソングが流れている。蛍光灯の淡い光を受けながら、アリスはバールの威力を値踏みする。おもむろにアリスは右手を振った。押し出された空気が風となり頬を撫でる。その重みは、殴られたらひとたまりもないだろうな、と思わせるには十分だ。

「じゃ、こっち」

 バールがカゴに入れられると、右手にズシリと重みが増した。すでにハンマーが二つも入っていたカゴは、重量に耐えかねてすこしたわんでいる。

「チサはハンマーと、ステンレス棒だけでいいの? ちょっと不安じゃない?」

「重たいものを使っても、ラケットより上手に扱える気がしないからなあ……」

「おじいちゃんの道場やめなければよかったのに。子供の頃は一緒だったんだし」

 アリスは私より女の子らしい見た目をしているのに、こういうところは男前だ。ちょっとずるい。

「そもそも、これでいいのかって気持ちなんだけどな、私……」

 率直な気持ちを伝えると、アリスは怪訝そうに首をかしげた。私はおかしくないはずだ、と思いながら言葉を続ける。

「物理的な手段が通用するかどうかわからない相手だよ? やっぱり、エスペホの本をまた調べたほうがいいんじゃないかな」

「そんな悠長なことを言っていられる段階じゃないよ。今すぐコギトがきてもおかしくないって、チサ、わかってる?」

 その目は真剣そのものだ。むしろなにをためらうのかと、アリスは私に問いかけている。たしかにそのとおりなのだが、これでいいのかと、疑問は尽きない。私の不安を嗅ぎとったのか、アリスは鼻を鳴らすと、大小も形状も様々なバールの前から立ち上がり、カゴの持ち手に手を添える。レジに向かって歩きだすと、前を見ながらアリスは言う。

「いまも感じるんでしょ? コギトが、どこかにいるって」

「ん……そう、だね」

 根拠はないはずなのに、皮膚感覚の部分で、コギトがどこかにいることは確信できていた。自分がこの現実に生きている。誰に言われるまでもなくわかるのと、同じ感覚だ。

「コギトはよくわからない存在だよ。でも、最後はこの世界に現れる。チサのコギトはチサの影、つまり存在の半分を奪った状態で、この世界に出てきてる。いまのチサと同じくらいの存在だ、と考えられる。わたしがチサを触れるように、いまは物理的な存在のはず。だったらやっつけることができる」

「理屈はそうだけど……でも、あいつよくわからない武器とか作ってたよ棒状の道具を作ったり、ボウガンみたいなものまで……」

「だったら、逃げる? 地中海のどこかにでも行ってもいいよ。今から飛行機を手配してもいい」

「それは……」

 なんの解決にもならない。言おうとして、やめた。そんなことアリスは百も承知だ。だからホームセンターで鈍器を探している。

「そもそも、わたし、ずっとやられっぱなしでムカついてたんだ。どうしてチサがこんな目に合わなきゃいけないのか、わからなかった。どうして誰かが傷つけられなきゃいけないか、納得できなかった。一発くらいやり返さないと、わたし、一生気が済まないよ」

「前から思ってたけど、アリスって、肝が据わってるよね」

「大事な人を傷つけられたらそんな気持ちにもなるって。チサだって、わたしがストーカーされてたら、怒るでしょ?」

「ん……それは、そうだね。うん。すごく怒る。ゆるせない」

「でしょ?」

 アリスは満足げに微笑むと、カゴをぐっと持ち上げて会計台に乗せた。

 レジを済ませて外に出ると、夜は深まり、街灯が落とす光は相対的な明るさを増していた。殺人事件が報道されたからなのか、駐車場に泊まる車は少なく、歩道をゆく人もまばらだ。コギトにとっては、邪魔なにおいを発するものが少なくなって好都合だろう。すぐにでも嗅ぎつけられそうだ。

 買ったばかりのハンマーをポケットに入れて、袋はお店のゴミ箱へ。アリスはハンマーをベルトに挿して、バールを右手に。視線を交えると、アリスは静かに歩き出した。

 作戦は単純だ。コギトが出てくるまで、街を歩く。出会ったら、逃げる。コギトは飛び道具を持っている。正面切ってやりあえば勝ち目はない。だからできるだけ狭いところに誘いこみ、あとは出たとこ勝負になる。作戦とも言えないずさんであらっぽい計画。

 うまくいくかはわからない。けれど、なにもしないよりは、このほうがいいと思えた。なにもできないまま、恐怖に怯えて待つくらいなら、怯えながらでも一矢報いたい。それすらできなかった人たちのために、私ができることはそれくらいだ。

「むずかしいこと考えてるでしょ」

 肩を突かれて我に返る。街灯の下でアリスは不満そうに口を曲げている。

「チサ、悩むくらいなら話して。こんな夜なんだから、すこしくらい気を紛らわせたい」

「ん……たしかに考えるより気が楽だね」

「でしょ? もしかしたら最後のデートになるかもしれないし、おしゃべりくらいは楽しもうよ」

「冗談じゃない。やめてよ、そういうの」

 今度はこちらが口を曲げる。アリスは頬を緩めて、また歩き出す。踊るように足取り軽く、これから命をかけに行くとは思えない。楽しんでいるわけではないだろう。けれど、気分は昂揚しているはずだ。実際、私も気がたかぶっていた。ようやくこちらの意思で抗うことができるから。

「あの三人のためにも、頑張ろうって思っていたんだ。私のせいで、命を落としたようなものなんだから」

「それはわたしも同罪だよ。コギトを呼び寄せるきっかけを作ったのは……エスペホの技法を実行したのはわたしなんだから」

「でも、殺されるところを見たり、感じたりは、してない。わたしはコギトを通じて、あの人たちを手にかけた。実感として、そうなんだよ。私がやったんじゃない、だけど私がやったんだって、そう思ってる。アリスの気持ちをないがしろにしたいわけじゃない、でも……それは本当なんだ」

「……そうだね。わたしが、いくら分けてほしいと思っても、それはできない部分だと思う。想像することしかできないから、悔しいとも思うよ。悔しいと思っていいことか、わたしにはわからない。それは起きて、変えられないことなんだから」

「どうして殺されなければいけなかったんだろうって、どうして殺さなければいけなかったんだって、なんども思ったよ。コギトがやったんじゃなくて、私がやったんじゃないかと疑っているあいだは、どうして私が死んでないんだって、そうも思った」

「他人の存在を食べることで、生きながらえていたのかもしれない。それか……もしかしたら、本当に叶えたい欲望を、いびつな形で叶えていたのかも。憶測にすぎないけどさ」

「だとしても、許したくない。なんでそういうものがあるのか、理解できない。コギトって、そもそも、なんなの? どうして私の前に現れたの。エスペホの場合は、神秘体験っていうか……求めていたからこそ現れたわけじゃん。でもわたしは、求めてもいなかった。負けていいとは思っていなかったけど、なにがなんでも勝ちたいとは思ってなかった。私は私のまま勝てればよかったのに」

「そういうものだ、と思わなければいけないのかもしれない。私たちはこうしている間にも、生まれ直しているから」

 言っている意味がよくわからなくて顔を上げると、気づけばアリスが遠くにいる。街灯に照らされるときだけ現れるように、またたいては消える星のように。

「私たちは一度しか生まれない。でも生まれ直すチャンスが精神には与えられている。たとえば、友達が死んだとき。たとえば、事故にあったとき。ドラマティックな経験は暴力的に精神を攻撃する。致命傷を受けた精神は、治らなければ死ぬだけだ。でも、身体は精神を失わない。それはベニクラゲが死とともに新たな個体を出芽するように、死んだ精神があらたな種を吐き出しているから。心が生まれ直しているからだよ。私たちは昨日までの私たちとは別人なんだよ」

 そして、死はいつ訪れるかわからない。世界は確率的なものだから。私がこうしてものを考えていることも、つきつめれば、偶然にすぎない。確率的に決定された私の身体の振る舞いがたまたまこのような考え方を導き出している。この言葉もまた偶然もたらされたものだ。神はサイコロを振り続ける。私たちは、そのサイコロに対して無知なのだ。

「だから、そういうものだ、と思えばいいんだよ。いつ死ぬか、選び取れる人はまれだからね。運命とは出会うべきとき出会うものだから。選びようもなく、偶然に。突然に。暴力的に、不条理に、あっけなく……」

「アリス?」

「チサ? どうしたの」

 前にいたはずのアリスが後ろから駆け寄ってくる。肩をゆすられ、過呼吸気味になっていることに気がつく。あたりを見回すと、いつの間にか住宅地だ。入り組んだ塀と門に囲われた逃げ場のない迷路にアリスが二人いる。足元には、どこかの玄関先に飾られた小人たち。数はきっと十二人だから、白雪姫はアリスに違いない。毒りんごの呪いから、解き放たなければ。

「違う」

 肩を掴む熱に耐えがたい渇きを覚える。夢とおなじ感触。

「二人いるのは、私。だから、あれは私だ」

 目をつぶり、息を整える。浮き立った意識を、重力に頼って、地に戻す。目を開けると世界の色は戻っていて、冷え切った肩に添えられたアリスの熱があたたかい。

 顔を上げると、道の先に人影が立っている。藍色の空気が浸透して、そいつのスカートの紺色が滲み出していく。地上に漏れ出た夜が版図を拡大する。それは地上にあふれる光を飲みこむ黒い穴のよう。

 吸いこまれそうだ、と思った。

 咄嗟に、アリスの手を引っ張って、その場に倒れ伏す。なにかが頭上をものすごい速度で突っ切って、背後でガラスが割れるような鋭い音が弾けた。

 頭上の明かりが不意に消え、手前から奥へと、順番に街灯が消えていく。住宅街から人の気配が消えている。ものが、そこに在るだけで感じさせる重力のようなものが消えている。世界に生きているのは、私と、アリスだけだと直感する。

「アリス」

「見えるよ、わたしにも」

 暗闇のなかにあるいっそう濃い闇の塊に目を凝らす。そこに私がいると感じた。けれど、次の瞬間、アリスがいると感じられた。目を凝らせば、いまにもふわふわの髪が見えるだろう。だが次の瞬間、気配はふたたび私のものに変わった。遠くに鏡があるかのように、手入れができてないぐちゃぐちゃの黒髪と、アリスより太い足が見える。

「……あいつ、鏡なんだ」

「どういうこと?」

「わたしたちどちらにも、成り代われるかもしれないってこと」

 だとしても、やることは変わらない。ドッペルゲンガーと出会ったら、あとには一人しか残らない。アリスもそれを承知しているのだろう。ギュッと握る手に力を入れた。

「行こう」

 言うが早いか、アリスは立ち上がって走り出す。二叉に分かれた道で二手に分かれる。第一ゲームは、目的地までコギトを誘導することだ。まずは逃げて、逃げ延びなければ。

 追いかけてこいと念じると、闇のなかで、私が新たな矢をつがえる気配がした。

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