13
生徒指導室を出ると廊下は静まり返っていた。ホームルームが始まっているのだろう。大人の声が閉じられた窓と扉に隔たれた向こうから聞こえている。誰もいないはずの、無人の廊下の奥に人影があった。
「チサ!」
大きな声が反響し、うねり、私を通り過ぎる。アリスは安堵したように微笑むと走りだした。ローファーのかかとがリノリウムを打って、硬い音を響かせる。後ろで扉が閉まって、振り向くと、男は首筋をつねりながら、気まずそうに視線を泳がせる。見るべきでないものを見るような目が、こちらに定まる。
「とにかく、私たちは捜査を続けます。また必要になったらお話をうかがうかもしれません。そのときはまた、ご協力願います」
「わかりました」
言い終わらないうちに私の手首が掴まれる。ぐいと引かれてよろけながら、勢いに歩調を合わせる。
「失礼します」
アリスは男をにらみつけて言った。
角を曲がって階段を降りる。ほとんど駆け下りるような勢いにすこし気圧される。アリスは足取りを緩めない。叩きつけるような足音に、いつもと違う匂いが混じった。場違いだと思ったけれど、汗には人の状態が反映されることを思い出した。
「廊下は走っちゃいけないよ」
私が言うと、アリスは階段の途中で立ち止まった。男に向けていた目が私に向けられる。きれいな頬を歪ませて、叫びだしそうだった。
「今、それなの」
大きく、溜息。
「ごめん。しんどいのはわたしじゃなくて、チサだよね」
「私のために怒ってくれてありがとう。でも、いいんだよ」
「いいって……でも、ありもしない容疑を」
「夢に見たんだ。今度の、殺人事件。事件が起きた場所も、夢で見た風景と同じだった。信じてもらえなかったけど」
アリスは息を呑んだ。
「……話したの?」
「うん。ちょっとだけ。全部話す前に追い出された。頭のおかしいやつを見るような顔だったよ」
泣きそうな顔で、アリスは私の頬に手を寄せた。どうしてアリスがそんな顔をしているのかわからなかったけれど、やさしく頬を撫でられていると、次第に胸が痛くなってきた。息がつまり、咳き込むように息をした。
「私って、おかしくなったのかな」
「大丈夫だよ」
「わからないんだ。昨日どこにいたか。どこまでが現実でどこまでが夢なのかわからない。部活が終わって、アリスを探して、走り出して、でもいなくて、一人で病院に行こうとして、それで、あの人たちが」
襲われた。
首を噛まれて殺された。
「殺されるところを私見てたんだ。あいつが動き出した。夢を見ていたのは私だけどあの夢は私のものじゃなかった。でもわからない。今までの夢もそうだったのか、どこまでがあいつの夢なのか、どこからが私の夢なのか、私がおかしくなってあの人たちを殺したのか、あいつが私の目の前であの人たちを殺したのか、どっちなのか、私、なにも」
「チサは悪くない」
「本当に悪くないのか、わからないじゃん。本当に私が殺したんじゃないってどうしてわかるの? 私を見た人がいるんだよ? どうやって帰ったのか、なにもわからないのに」
「でもわたしはチサの感覚を信じてる」
アリスは私を抱きしめた。階段を踏み外して、全身の体重をかけてしまっても、でも、全部受け止めてくれる。踏ん張って私の体を受け止めた。
「コギトに出会ったことも信じてる。だからチサが殺してないことも信じてる。チサじゃない誰かが殺したのならそれは、コギトがやったことだよ」
涙が出る。嗚咽する。アリスの温度は冷え切った震えるこの身体を許していた。けれど私はそれを、信じることができない。
「だったら最初の殺人は?」
階段に足をおろして、アリスから離れる。戸惑う目を私は睨みつける。睨みつけたいわけじゃない。でも目に力が入る。入ってしまう。わかっているから。私を許すためにごまかそうとしていることが。アリスが自分を騙しているから。そんなことを私はさせたくないから。許せないから。
「私、夢のなかで殺したよ。女の人の首筋を噛んで、食べた。美味しかったよ。とても甘くて、いちごをたくさん食べたような味がした。血と肉がそんな味するはずないのに私はそう感じたよ」
「あれは……死体が、なかったじゃない」
「でも殺した。夢のなかで殺していた。殺したという実感があった。私の感覚を信じてるならどうして殺したと認めてくれないの。あの人は、私が見られていたとも話したのに」
「まさか、ありえない」
「どうして」
「チサは遊園地で倒れた。それからずっとわたしの家で寝ていた。すぐそばで作業をしていた人たちが見つける前に駆けつけたのだから、倒れてからそう時間がなかったはず。チサが見られるなんて、そのほうがおかしい。チサそっくりの誰かが見られたと考えたほうが、筋が通るよ。コギトは本当にいるんだ」
「もし誰も気づいていなかったなら? 倒れた私に気づかなかったなら――」
「ありえない仮定はやめてよ!」
「ありえない仮定を始めたのはアリスだよ」
視界が滲んで目をこする。泣いたのは私なのにアリスのほうが泣きそうだった。
「エスペホのことも、コギトのことも、本来ありえない仮定であるオカルトを真に受けてみたんだよ。そのアリスを私は信じたんだよ。なのにアリスが、そんなこと言わないでよ」
「なら、だって」
アリスは言葉に詰まる。階段を踏み外して、落ちそうになる。その腕を掴んで、手すりを持ちながらぐいと引っぱる。華奢な体を抱きとめて、姿勢を崩して、階段に尻餅をつく。
抱きとめたまま、腕の中に収まっていたアリスは、呆然としていた。ゆっくりと私に顔を向けると、じわり、とその下瞼から湧き出た涙が頬を伝った。
「じゃあ、どうしたらいいの」
「アリスにわからないこと、私がわかるわけないよ」
頭をかき抱くと、アリスは泣き出した。私はぐっと唇を噛んだ。痛くて、そのせいで、私の目からも涙が流れた。
どうすればいいのか、考えようとしてみる。そもそも、どうしたいのかもよくわからない。私のせいで本当に人が死んだかもしれない。これ以前にも誰かが死んだかもしれない。前の殺人は夢かもしれない。でもどちらにおいても私は見られているかもしれない。なにも確かなことがないのに、なにかを決められるわけがなかった。
チャイムが鳴って、我に返る。一限目が終わった。廊下に、にわかに喧騒が戻る。
「教室、行かなきゃ」
アリスは目をこすりながらつぶやいた。それから、しまった、と口をおさえる。赤くなった目を向けて、アリスは言う。
「これ、隠さないとね」
立ち上がり、アリスは私に手を差し伸べる。右手を重ねるとグイと引かれ、そのまま私も立ち上がる。今度はゆっくりと手を引かれ、二人で歩き出す。
「それでも、二人で分かち合おうよ」
前を向いたままアリスはそう言った。
「どうすればいいかわからなくても、その不安も、きっと二人ならなんとかなるよ」
握られた手に強く力がこもる。
握り返そうとした。
でも、廊下に出て、教室に向かう道に出たとき、あたりが静まり返った。
廊下に出ていた顔見知りも顔も知らない誰かも職員室へ戻ろうとしていた先生までも、みんな、全員、同じ目でこちらを見た。
はじめに私を。続けて、アリスを。
あの男と同じ目だった。見るべきでないものを見るような目つき。生理的嫌悪感を隠そうとして隠しきれない目つき。
アリスまでもが頭のおかしいやつのように見られたことに気がついたときには、アリスの手を振り払っていた。
「いい加減にしてよ」
「……チサ?」
「私のこと、何もできない子どもだと思ってるんじゃない?」
振り向いた愛おしい横顔に、できるだけの憎悪を捏造して、叩きつける。
「昔から、ずっとそういうところが大嫌いだった」
あたりがざわつく。異常なものを見る目が私に集まる。アリスは、なにが起きたかわからないようだった。
「自分より劣った相手を言い負かして好きなようにするのは気持ちよかった? ずっとそうやってプライドを維持してきたくせにちょっと言い返したらすぐ被害者ヅラ。そういうことされてなにも思わないと思ってた?」
「ち、ちがう、そんなつもりじゃ」
アリスは胸を押さえる。顔が青白い。うまく息ができないように見えた。
「ごめ、ごめんなさい、わ、わ、わ、わたし、チサをき、傷つけるなんて」
「だから、もううんざりなんだって!」
大声を出すと、アリスの口から苦しそうな声が漏れた。泣くのをこらえるように歯をがちがち鳴らしながら自分で自分の手首を強く握りしめる。見ていられなかった。
「もう放っといて」
背中を向けた。震えて泣き出しそうな赤ちゃんみたいな声が背中を叩いた。掴まれた気がした。細いあたたかい私を許してくれる指が制服の背中を引いた気がした。
「ちさ」
「うっさい!」
逃げ出した。走り出した。背後で誰かが泣いた。喧騒がひどくなった。
最低だ。
「アリスちゃん、大丈夫?」
お前が死ねばいいのに。
「ちさはわるくないから、わたしがわるいから」
「アリスちゃん……」
耳をふさいで走り続ける。誰かにぶつかって、弾き飛ばされて床に転がる。涙が出た。伸びてきた手を叩いて、這うようにひじでリノリウムのうえで身体を前に動かして立ち上がって走る。門を出てもうひとつ門を出て正門を出て、誰もいなくなる。走りながら、叫んだ。アリスを傷つけた自分が許せなかった。でも人を殺したやつのそばなんかにアリスがいていいわけがなかった。
長い道には光が溢れていた。流れる川に走る車に街路樹に店の窓にあらゆる生活に光が注がれている。ここにいるべきじゃないと思った。だから走り続けた。胸の痛みが現実だと告げている。ここが現実だと。ここがアリスと毎日歩いた通学路で一緒にトンボを追いかけた川沿いで冒険の入り口だった交差点で他愛ない会話を続けてきた十数年の舞台だと。
私はそれを拒絶したのだ。手放したくなかったなにより大切な世界を捨てたのだ。
家に帰り着くと鍵を開けて自分の部屋に飛びこんだ。戸締まりもなにも考えなかった。私は部屋じゅうのアリスの世界を箱に詰めることにした。いつかプレゼントしてもらった万年筆、交換したぬいぐるみ、選んでもらったリップスティック、一緒に出かけたときに褒めてくれた服、アリスが読んでいて面白いと言っていた様々な本、そうしたものをぜんぶまとめてぐちゃぐちゃにして通販のまだ捨ててなかったダンボールに詰めこんでガムテープでぐるぐる巻きにして押し入れに投げた。
そうやって被害者ヅラして気持ちいい?
顔を向けるとそこに学習机の横の鏡台にパンダ女子が卑屈っぽく笑っている。
手近にあったなにかを掴んで投げた。
目覚まし時計がパンダ女子は粉々に砕いた。
破片が飛び散り大きな欠片が床に落ちて地面の光を天井や壁に反射する。
布団をかぶって、暗闇に逃げる。生暖かい薄暗がりは音も遠く、心が安らぐ。
けれどそこにはアリスがいなかった。アリスに類するものが欠片もなかった。
いないとわかると、怖くなった。自分がさっきなにをしたか理解して、もっと怖くなった。これから起きることも想像できて、全身が冷えて、肩を抱きしめるように掴むけれど手のひらの熱は役に立たない。
喉がカラカラに渇いて、一人ぼっちになった事実から目を背けたくて、目をつぶると、そこに胸を押さえる過呼吸のアリスがいた。
「ごめ、ごめんなさい、わ、わ、わ、わたし、チサをき、傷つけるなんて」
アリスは誰かを傷つけないか不安だったのに。昔からずっとそうだったのに。知っていたからこそ私は、彼女が私を傷つけたという過去を捏造して、私たちの時間のすべてに消えない傷をつけた。
「全部わかってる。わかってるんだよ、アリス、ごめん、ごめんね」
あの日、幼稚園の劇の役決めで、アリスを主演にする大勢の声が一人の女の子にシンデレラの役をあきらめさせたことを私は忘れない。みんなの声を断って女の子に役を譲りでもしたら、その女の子が惨めな思いをするとアリスは気づいていた。断らなくても選ばれない惨めさを味あわせることも気づいていた。だから大げさに喜んで、その子に恨まれようとしたのだろう。そのときの痛みも、姿を消した未来のプリンセスが滑り台の下で泣きながら謝っていたことも、見つけた私を傷つけまいとわざと挑発しようとしたことも、全部覚えている。望んでもなかった役を期待されて、もっとも避けたかった事態に放りこまれて、それでも誰かのために傷つこうとしたアリスのことを忘れるわけがない。
はじめから私たちは共犯者だった。秘密を共有した共犯者。世界でただひとりすべて分かち合える半身。だから今も、これまでもずっと、アリスが私のことを本気で大事に思ってくれているから頑張ってくれたのに。
もう戻れなかった。
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