化膿

12

 見覚えのある建物と、大きな雑居ビルが見えた。進学塾とビルの間にできた薄暗い路地裏の奥にはぼやけた白い人影が二つたたずんでいた。私はそれをじっと見つめる。白い人影は、路地裏を覆う深い闇に時間とともに沈んでいく。

 雲が流れる。車が通り過ぎる。ベビーカーを押す主婦が二人並んで通り過ぎる。ふと、辺りが暗くなっていることに気づいたとき、塾の角から黒い影があらわれる。

 全身真っ黒な、ぼやけた世界のなかでもさらにぼやけた人影。それはゆっくり歩いている。水のうえを歩くように、ここにいない誰かのように。

 黒い人影は二つの建物の間に立つと、路地裏のなかに入っていった。私はそれを知っていた。叫びだしそうになった。喉が震えて、けれどなんの音も出ない。私はここにいないから、どうしようもないから、まず訪れた諦めによって、声は押しつぶされる。

 黒い霧が生じたように辺りはいっそう暗くなり、なにも見えなくなった。

 太く、親指ほどもありそうな人指し指が画面を叩いた。時間が巻き戻り、人影を路地裏の前に巻き戻す。指は人影を押さえた。

「これ、ご存じないですか?」

 顔を上げるとデスクライトの光が目を刺した。目を細めて、涙を指でぬぐおうとすると、ハンカチが差し出される。礼を言って顔を拭き、机に置く。

「これが、なにかわかりますか?」

 私は首を振った。男は怪訝そうに首筋の肌を人指し指と親指でつまみ、ぐりぐりといじりはじめる。

「この映像は昨日二十時十三分から三十九分にかけての映像です。この時間、あなたはどこにいましたか」

 答えずにいると、男は溜息をついてタブレットを操作した。

 再び向けられた画面には、やはりぼやけた人影が映っている。この学校の制服と思わしき半袖のブラウスと膝丈のスカートが街灯に浮かびあがっている。

 その女の子は、走っているようだった。

「この人に見覚えは?」

「わかりません」

「証言者によれば、あなただそうです」

 男はタブレットを操作した。映像が拡大されると、気の良さそうな褐色の青年が移動式の屋台から歩道を覗いている。

「移動式のケバブ屋が写っているでしょう。この店主にあなたの写真を見せました」

「それで、私だと?」

「それだけじゃありません。この件を受けてあなたが通報した事件を再捜査しました。あの死体が発見されなかった事件です。そこでも監視カメラに黒い影が映っていて、あなたらしき人物を目撃したと証言が得られた。本件とほぼ、状況は同じです」

 顔を上げると、黒い目が私を見つめている。

「もう一度聞きます。昨日二十時十三分から三十九分にかけての映像です。この時間、あなたはどこにいましたか」

 目に写った女の子は膝の上に両手を重ねている。だがよく見ると、重ねてはいない。右手で、左手の甲を抓っている。目が、手を注視する。厚ぼったい唇が歪む。どうしたのかと心配するように、顔色が悪くなる。女の子は大きく息を吐き出した。

「夢を、見ていました」

「……夢?」

「ええ。たぶん」

「たぶん?」

 訝しむ男にチサは頷く。

「たぶん、その時間は夢を見ていました。たぶん、夢のなかで、女の子が二人殺されるのを見てしました。たぶん、この事件でした。黒い影が女の子を殺しました。ひどく、無残に殺しました。でも、本当のことはわかりません。夢だったのかもしれないし、夢じゃなかったのかもしれない。誰かが殺したのかもしれないし、私が殺したのかもしれない。わからないんです。どこにいたのかも、なにをしていたのかも、本当に起きたのか、夢だったのかも」

「わからない、って……でもあなたはいまここにいるでしょう。そのことは確かなはずでしょう」

 男は言う。わけがわからないと、頬は引きつり、たしなめるように笑っている。その瞳に写るチサは、泣きだすのをこらえるように口元をゆがめた。

「でも、あなたはここにいないかもしれないでしょう? 私たちは誤りを犯す五感の檻の中に閉じこめられているんですから」

「……わかりました」

 絞り出すように言うと、男は首を振った。

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