14

 興奮が去り感覚に蓋をしたような静けさが頭のなかにおとずれると、あれほど悩んだこれからの指針が頭に浮かんだ。

 これからずっと、私は寝てはいけない。寝たらまた誰かが殺されるかもしれない。誰かを殺すくらいなら、私が死んだほうがいい。だから眠らないことにした。

 眠らないためになにをすればいいか考えて、まず親指を噛むことにした。どこをどう噛めば最も痛いか試行錯誤をしたすえに、前歯で骨を挟むように噛むのが最も良いことを発見した。皮膚に突き立てられる前歯の硬さと前歯に当たる骨の硬さの狭間に意識を向けるとそれは終わりなき墜落で、宙ぶらりんの状態で私を保った。これから迎えることになる長い夜を耐えぬくためには時間を忘れることが必要だ。痛みのなかで溺れていると、時間を忘れることができた。

 長く噛み続けていると次第に痛みがひどくなって瞼から涙が溢れてくる。視界が歪んでもそのまま噛み続けていると涙がわらわらあふれて頬を流れた。鼻に水滴がかかって吸いこみそうになる。涎も出てくる。指がベトベトになる。放っておいたらそのうち口の中も渇いてきて、出てくるべき汗も涎も涙も止まった。

 どのくらいの時間が経ったのだろう。背中を押し当てていた壁の冷たさもいまでは体温と同じ熱を帯びている。パンダ女子に投げつけた目覚まし時計を一瞥すると、十時手前で針を止めたまま天井をじっと見上げている。時間が存在することを伝えるのはただ向きを変える影だけだった。あちらを向いていた影はいつしかこちらへ近づこうとしている。ベッドに伸びる影を見渡すと網膜を太陽が焼いた。とっさに身体をずらし、身を隠す。

 窓の向こうでは車の音が、かすかに聞こえるようになる。どこかで続いている工事の音も昼休憩に入るらしい。

 痛みに溺れていられなくなっていることに気がついた。私を溺れさせていた痛みの水面はいまではすっかり涸れていた。顎に力が入らない。強く噛もうとして、全身に力を入れたとき、お腹のあたりから力が抜けて気づけば枕を横にしている。眠りそうになっていた。

 身体は同じ刺激を与え続けると次第に慣れて前と同じ程の反応を示さなくなる。はじめのうちはよくても痛みのなかに溺れ続けることはできない。酸欠になって沈んでいくように深い眠りに引きずりこまれるだろう適度に違うことをしなければいけない。

 焦燥感から立ち上がると少しだけ眠気が抜けた。立っていることで血の巡り方が変わるのか、身体が起きていようとする感じがした。それで筋トレをすることにした。ベッドの上で背筋を伸ばして学習机に並ぶ教科書類を見つめながらスクワットをしようと腰を下ろすとスプリングがきしむ。足場の変形で姿勢が崩れ後頭部を壁にしたたかに打った。くらっとして意識が飛ぶかと思った。頭を押さえながら顔を振ると、二度目は壁のほうを見ながら、注意しながら腰を下げてみた。三回目でコツを掴んだ。起き続けることが目的だから疲れ過ぎない程度にやろうと考え、五回したら五分休憩を入れる。腰を下ろして上げてを繰り返し、体育座りで息を整える。身体に血が巡る感じがした。心臓がすこし痛いのは疲労のせいだろう。

 寝てはいけない。ただそれだけを考えようとして、雑念が交じる。こんなことをずっと続けるのか。そんな非現実的なことをやることになるのか。学校へ行かず部屋に一人閉じこもり一生を終えるのか。それこそ誇大妄想なのじゃないか。ありえないことを考えていると思った。

 頬をつねる。痛いが、鈍い痛みだった。痛いのに痛くない。そう感じた。夢かもしれない。どこからが夢なのだろう。そもそも本当に目覚めたのか、それすら疑わしい。まだ夢を見ていると考えれば、こんな状況に陥ったことに説明がつく。長い悪夢だが、今までの経験どおりなら、いつか覚めるだろう。

 けれど醒めない夢があるとしたら、それは現実と名付けられるはずだ。それは私という意識が宿る肉体がうしなわれるまで続く夢にほかならない。そしてあたりまえのことだけれど、夢が肉体に依るいじょう、私が見た夢はすべて現実の出来事なのだ。

「なら、どっちも私じゃん」

 夢と現実が等価なら悩む必要はなかった。殺したのは、私だ。ごく自然に私はその考えを受け入れることができた。どうしていままで悩んでいたのかわからなかった。実際に私が現場にいたかとか、いなかったかとか、そんなことを悩むことが間違っているのだと思えた。だったら、自首したほうがいい。こんなところにいたら、ふたたび誰か殺してしまうかもしれない。今までのすべては私が私という肉体を制御できなくなったことで引き起こされた事故なのだ。自分で制御できないのなら他人に制御してもらえばいい。手錠をかけられて、刑務所に入れば、誰も殺さずにすむ。そしてこんな努力をしなくてよくなる。誰かを殺すかもしれない不安と決別し、今まで通り安心して眠れるようになる。

 そうだ。眠れるんだ。このままずっと眠れないよりも、そのほうがずっといいじゃないか。誰も心配せずにすむんだ。私も、お母さんも警察の人も、学校のみんなもきっと――

 アリスも?

 そうとも、アリスもだ。いまアリスは傷ついている。私を信じたから傷ついている。信じられる存在じゃなかったと明らかになれば、きっと、そのほうがいいはずだ。

 行かなければ。追い立てられるように立ち上がると、目の前にアスレチックが見えた。

 アスレチックは茶色の胴体をピラミッドのように天の消失点へ向けていた。私はその足元に立っている。見上げているとどこからか笑い声が聞こえてきて、大地を揺るがしながら幼児の姿をした巨人たちがアスレチックの胴体に取り付けられた梯子や網に飛びついた。キャッキャと笑いながら幼児たちは互いを押したり引っ張ったりして頂上を目指している。見覚えのある服を着ていた。どこで見たかわからなかった。

 喉がひどく渇いている。つばを飲もうとしてむせた。気道に引っかかった感じがした。大事なものが体の内側から出ていくんじゃないかと思うほどひどく咳き込んだ。

 咳がやむと思い出したようにどこからか泣き声が聞こえてきた。私はぐるりとアスレチックの周りを巡ってみた。ピラミッドのように巨大なだけあってその外壁に取り付けられた様々な遊具も巨大だし、一巡りするだけでも一苦労だったが、大樹のような胴体のふもとには巨大な蛇の巣穴のような暗い道がいくつかあった。くじ引きでもする気持ちで直感で選んだ一つの大穴に足を踏み入れると、泣き声が次第に大きくなってくる。道なりにすすむと、足の裏が痛くなってくる。地面に散らばる小石が刺さっているのだろうか。痛みはだんだんひどくなり、それでも前へ進んでいく。

 この道をどこかで見た気がしてくる。記憶は故郷のようになつかしくかけがえがないのに、思い出せない。三つの道が交わる場所へ出たとき、郷愁はいっそうひどいものになった。泣き声は後ろからも右からも左からも聞こえていた。すぐ近くからも聞こえる気がした。右へ行こうとしたり、左へ行こうとしたり、引き返そうとしたり、うろうろ歩いているとそのうち足の裏の痛みが耐えがたいほどになってきた。あまりの痛さに立ち止まり、小石を除こうと足元を見たとき、そこに私がうずくまっている。

 私の背中はひどく小さくかがんでみなければそれが本当に私なのか確証がもてないほどだった。膝を曲げて左手を地面につけるようにゆっくりと下ろしながら目を凝らすとたしかにその背中は私の背中で自分を見ているのはどこか奇妙だった。うずくまっている私もまた私と同じようにうずくまっておりさらにその下に小さな私がいるのが見えた。私がかがむという行為が無限回繰り返されていくのかと思ったとき、うずくまっていた私がこちらを見た。

 その口元は血で汚れている。その足元にふわふわの髪の毛が見えた。

 左手に鋭い痛みが走った。とっさに手を戻すと鏡の破片が突き刺さっている。ごく小さな、小指の爪の先ほどの鏡のなかから、口元を血で汚したパンダ女子が私を見ていた。

 悲鳴を上げて飛び退く。無数の目が私を見ている。薄暗い床の上にパンダ女子が大小様々に分身している。まさかと思って足の裏を見るとガラス片がいくつも突き刺さっている。私の口は奇妙な音を発して、私の手と足の裏から鏡を抜いては床に落とした。けれど傷口はじくじくと痛みまるで中に奥に入ろうとしているみたいだった。目に見えないほど鋭い欠片となったパンダ女子が芋虫のように私の血管を目指して這う様子が思い浮かんだ。血管に到達したら、そして私を巡るようになったら、パンダ女子が私に成り代わるんじゃないか、そう感じた。パンダ女子が細胞に感染し複製し量産されついに脳まで到達するのではないかと思うと首筋をムカデが這うような気持ち悪さがして思わずガリガリと引っ掻く。

 部屋を飛び出していることに気づいたのは階段を降りているときだった。私の足は小学生の男の子が走るみたいに大股で二段飛ばしに駆け下りてキッチンへと走った。取り出さないと。私の頭はそれだけを考える。このまま成り代わられるのは嫌だ。警察に行くべきだと頭のなかで誰かがささやく。それは私の考えのはずなのに私と無関係に生じている。

「おまえは私じゃない」

 今までなにをしていたかわからなくなった。ずっと起きているつもりでいたのに途中からおかしくなっていた。アスレチックなんていけるはずないのだから、あれは夢を見ていたはずだ。いつの間にか寝ていた私が、夢のなかで部屋を歩き回って、鏡の破片を踏みつけた。そのはずだ。でも本当にそうなのか?

 コギトが、私のなかにいるのかもしれない。そう考えれば辻褄があう。直接私の身体を操ることはできないのか、それともなにか条件が必要なのか。とにかくあいつは私を思い通りの方向に誘導しようとして、夢のなかでなにかを選ばせようとした。そう考えれば理解ができる。確信は依然として持てなかったけれど、今やることは決まった。アイツを追い出さなければいけない。

 身体が走るに従ってリビングに飛びこむ。包丁が必要だ。身体を解体して潜んでいるコギトを追い出さなければいけない。そう思ってキッチンに身体を向けると母が目を丸くして突っ立っていた。

「ちょっとチサ、怪我してるじゃない」

 母は私の手をとると傷の様子を見て顔をしかめた。

 母の体温が冷たい身体に染みこんで、とつぜん視界が狭まっていたことに気がつく。まるでトンネルの中にいるみたいに、狭い範囲しか見えていなかった。自分がいま、家にいて、リビングにいることを意識する。それは、現実を生きているときの感覚そのものだ。

 なにも言わずにいる私を母は怪訝そうな目で見ると、慌てた様子で椅子に座らせた。

「バンソウコウと消毒持ってくるから、そこで待ってなさい」

 母は人指し指を私に突きつけると治療箱を取りにリビングを出ていく。一人になって、息をする。いい匂いがしていた。

 振り向くとコンロにはフライパンと片手鍋が並んでいて、トマトソースのにおいが漂っている。料理を作っていたのだと気づいて、お腹がなる。ひどく渇いた感じがして、喉をかこうとして、手を止める。夢と同じ渇きを、私は感じている。

 本当に私がやったんじゃないか? ふたたび、疑問が鎌首をもたげる。同じところで、右往左往している。アスレチックの下の迷路でみた、三つの道が交わる場所にまだいることを思い出す。どこかに行かなくてはいけない。そう思ったとき、扉が開く。

「チサ、手出しなさい」

 母は私の足元に膝をおろして持ってきた消毒液を私の手に振りかける。ジクリとしみる。痛みは私を宙吊りに現実と夢の狭間に連れて行こうとする。歯を食いしばって抵抗する。いま行くべき場所はそっちじゃない。

「……ねえ、アリスちゃんと喧嘩したの?」

「え?」

「チサになにかあるなら、アリスちゃんのことかなあ、って」

 母は言葉を選んでいるようだった。アリスにすでに話を聞かされたのかもしれない。言及されれば、強く拒絶するつもりで身構える。すると母は顔色を変えて首を振った。まるで言い訳をする子供のように。

「お母さんが言うことじゃないかもしれない。けど、アリスちゃんのこと許してあげてね」

「アリスを?」

「ケンカするっていうことは、相手の許せないことにぶつかったってことなのよ。だから……」

「どうしろっていうの」

「自分を傷つけないでほしいのよ」

 泣きそうな声だった息を細かく吐き出しながら、つっかえつっかえ、母は続ける。

「わたし、チサのことを大事に思ってるの。ほんとうに、それだけで、だから、ち、ち、チサ、わた、わ、わたしは――」

 思わず、椅子を蹴って立ち上がる。

 母は戸惑ったように顔を上げる。母の肩の上でふわふわの髪の毛が揺れる。どこかで見たような目が私を見る。その顔はアリスによく似ていた。いや、アリスそのものだった。アリスが、ここにいた。母の姿で、私の前に立っていた。

 夢だ。そう思った。また夢を見ている。ここにいるべきではない。半開きの扉に目を向けるとアリスが母の声で叫んだ。

「チサ、行かないで!」

 出口を塞いだからだを突き飛ばしてリビングを出た。そのまま走って、裸足のまま外に出ると、辺りはもう夜で夢のように青黒い闇に覆われていた。顔を下げて、どこかへと走る。心拍数が上がり呼吸が荒くなる。これなら寝ていないはずだ。だから夢じゃないはずだ。でも、いつ夢が訪れるか気が気じゃなかった。夢の始まりを察知できなければ逃れようがない。逃れるなら、それは現実を永久に消滅させるときだけだ。

 川に身を投げようと私の頭は思いつく。そのほうがいいだろうと私の顔が頷く。白昼夢を見ているのか、コギトの夢を見ているのか、どちらでもよかった。この悪夢から逃れる道は一つしかない。だからそれを選ぶだけだ。

 だが交差点に歩を向けようと顔を上げると、私はあの三つの道が交わる場所にいる。遠くから赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。

 首を振って、顔を叩く。私は現実にいるはずだ。立ち止まってじっと耳を澄ますと、川のせせらが聞こえてきた。目を開ければ消えて無くなりそうなほど小さな音を頼りに、暗闇のなかを走り出す。

 ブレーキ、クラクション、誰かの怒声、赤ちゃん、蝉と蛙の合唱曲、そしてピアノ。閉じることのできない耳からは様々な音が入ってきた。そのなかには引き止めるような声も混じっている気がした。私はそのすべてを無視した。交差点はすぐそこのはずだ。何度も歩いた道だから位置関係は覚えている。

 ここだと思って、目を開ける。私はまだ薄暗い迷路のなかをさまよっていて反響する鳴き声を追いかけている。行かなければ、と心臓が早鐘を打つ。アリスが泣いている。

 それで、懐かしさの正体に気がついた。私は始まりの日に戻ってきたのだ。誰よりも早くアリスを見つけなければいけないのは、誰かにアリスを奪われないためだ。

 反響する声に足音が交じる。甲高いローファーのかかとが地面を打つ音。ここには私以外の誰かがいる。パンダ女子だ。私の血管に侵入した無数のウイルスがアリスに殺到しているのだ。アリスを守らなければいけない。私は走った。胸の下が痛くなっても走った。。走り続けて、泣き声に近づく。そこにいるはずだと確信を抱きながら、見定めた目的地へ向かおうとして、なにかがおかしい事に気がついて、立ち止まる。

 黄昏時のように明るく、同時に薄暗かった。太陽も月も星も見えない。極彩色に染まった空のもと、世界の色が狂っている。青ざめた街には私しかいない。甘いにおいの名残が濃密に立ちこめている。抵抗を許さない渇きが、呼び起こされていく。私のものであって私のものではない渇きは、足元に咲く毒々しい花々を見て確信を抱く。ここにちがいない。違う、と念じても、止まらない。

 目覚めなくてはいけない。

 私の目の前で私の身体が動き始める。意識は置き去りにされ私であって私ではない身体が私を私から追い出していく。私の身体は二階へ向かう階段の脇を抜け、並ぶ玄関を通り過ぎ、奥の扉に吸い寄せられていく。ここがどこだか私は知っている。近づいてはいけないのに私の身体は近づいていく。アリスと私の秘密基地へと私の特別へと近づいていく。あのときと同じだ。鏡のなかに入ったときと。嫌だ。強く、念じる。嫌だ。やめてくれ。早く目覚めてくれ。それなのに、身体はドアノブに手を伸ばす。私の左手が、冷たい鉄の感触に触れる。

「やめて!」

 その瞬間、声が出た。私そっくりの女は私を振り向いた。女は薄笑いを浮かべた。

「やっと見つけた」

 女は私に手を伸ばした。指が私の中に入っていった。世界は波打ちなにもかもが滲んで歪む。女の身体が私の中に入ってくる。全身が、裏返り、私が私から押し出される。私を成していたなにかが奪われて、背骨を抉り取られたような激痛が走った。痛いのに、ただ痛みだけが意識を麻痺させて、身体に傷はないとわかっていても息ができない。私が後ろから私を押した。私は砕けた夢のなかに突き落とされ、そのまま落ちて、落ちて、飛び起きた。

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