摘出

15

 ベッドに寝ていることに気がつくまで数秒を要した。どこにいるのか、なにをしていたのか、わからなかった。けれど、これが現実だという直感がはたらいていた。ずっと続いていた夢見心地は消え去っている。視界の左側を覆うカーテンのひだも、水色の掛け布団のなかにこもる熱も、どれもが自分に属するものであるように感じられた。

 上体を起こすと誰かに手首を引かれた。見ると母が私のひじのあたりに突っ伏するようにうつむいていた。静かに上下する背中を見るに寝ているらしい。

 母の左手首に巻かれたデジタル腕時計を見ると、日付は変わっておらず、時刻は二十時を示している。自分の服装を見ても、出ていったときと同じ制服のままだ。

 向かいには同じようにベッドが置かれていて、老いた男性がまどろみを堪能している。消毒液のにおいもするし、病院にいるとようやくわかった。どうしてここに運び込まれたかはわからない。確かめたい気持ちもあったが、私は母の手をほどいて、ベッドを降りる。

 アリスを守らなければいけない。直感的にそう感じていた。コギトが、アリスを探しているからだ。根拠はないが、そう感じられた。アイツはこの世界のどこかにいて、夢見るようにさまよっている。いますぐ行かなければ、いつアリスが襲われるかわからない。手遅れになるわけにはいかない。コギトより先にアリスのもとへ行かなければいけない。その思いだけで、ベッドを降りて、スリッパを履いてどこか見覚えのある廊下を抜ける。

「あらチサちゃん、起きたの? 大丈夫?」

 トイレの横を通り過ぎると受付に出る。並んだベンチには診察待ちの老婦人や小学生の男の子がテレビに釘付けになっている。退屈そうに手元の帳簿に目を落としていた女性は、知り合いだ。

「大丈夫です。あの、先に出てるように言われて」

「そう。じゃお母さんのこと待ってるわね」

「お願いします」

 曖昧にうなずく。靴箱には私の靴があった。母が持ってきてくれたのだろう。胸の内で感謝を述べて自動ドアを出る。外に出てから振り向くと、思った通り、子供のころからお世話になっている地元のクリニックだった。おそらく、私はあのあと路上で倒れて、追いついた母がここに運び込んできたのだろうと想像できた。街の中を走っているときから、夢のなかにいたのだろう。

 迷路のような道を抜けて川沿いに出る。目指す先はあのアスレチックだ。いまのアリスは傷ついている。私に、傷つけられたからだ。私にかかわるものに触れるだけでいっそう傷ついてしまうだろう。だから家にはいないはずだ。一人で泣くしかないアリスは、にもかかわらずそれにふさわしい場所が一つしかないことを理解している。そこにいれば、私に見つけてもらえるかもしれない。そんな期待もこめながら、期待してしまう自分を情けないと感じて、泣いているはずだ。

 行くべきじゃない、とは思わなかった。間違いは正されなければならない。アリスを傷つけたことを、謝って、許してもらえなかったとしても、守らせてもらわないといけない。街から出てもらうことも考えよう。あいつに見つかる前にできるだけ遠くに逃げてもらえば、安全だろう。そして私がなんとかしてコギトを見つけて、相討ちに持ちこめばいい。

 どう相討ちにすればいいかは思いつかなかったけれど、とにかくアリスをこれ以上傷つけたくなかった。

 あるいは、アリスは言うかもしれない。私を許したあとに、あの言葉を言ってくれるかもしれない。きっと耐えられなくて泣いてしまうだろうな。そう思ったとき、車の音に紛れて、誰かが鼻をすすっていることに気付く。

 気づけば私は公園にいて、思い出のアスレチックの前に立っている。身長よりはるかに小さな子供向け遊具の中央に巨人のように佇むアスレチックは、それでもせいぜい公園を囲う植木と同じくらいの大きさしかない。だから上から見下ろせば、その四本の足下に絡み合うすべり台や迷路のようなトンネルの隙間から、中央にある空き地にうずくまる女の子の背中を見ることができる。

 震える、その背中を見て、涙が出そうなくらい安心した。もう二度と会えないと、本気で思っていたから。私の世界にまだいてくれているだけで、嬉しい。

 私は階段をつかってアスレチックを登った。二階部分の床のひとつから、中央の空き地を見下ろせる。私は、その穴の上から、白い背中に呼びかける。

「アリス」

 背中の震えが止まったように見えた。けれど、振り向いてくれない。当然だ。傷つけたのだから。そう思っていても、胸が痛くて、唇を噛んで涙をこらえる。

「アリス、ごめん」

「なにが、ごめんなの」

「傷つけたこと。アリスを、傷つけたこと。本心じゃなかった。アリスを突き放した。だから、ごめんなさい」

「それだけ?」

「信じてくれてたのに、突き放したことも。なんでも分かち合えばいいのに。私たちはそれでいいのに、そのアリスとの関係を裏切ったこと。いちばん、それが、ごめんなさい」

「だったら約束して」

「全部分かち合う。今度こそ、全部、話す。不安なことも、怖いことも、全部話す。約束する」

「本当に?」

「絶対。どんなことがあっても」

「忘れないでね。それ、絶対だから」

 そう言うと、アリスは立ち上がり、手を伸ばした。高校生の身長では指先がここまで届くことをその時知った。アリスの小さな手を取ると、力強く握り返された。腕にぐっと力を入れるとアリスはひと息に登ってきて、そのまま私の上にのしかかった。

「アリス」

 重いよ、と言おうとして、アリスが胸に顔をうずめたまま震えていることに気づく。私は、もう一度ごめんね、と言ってその背中をさすった。戻ってこれた、と感じた。ここが私のいる場所で、これが私の世界だと。

「おかえり」

 アリスが顔を上げて言う。まるでわかりきっていたように。きっと、わかりきっていたんだろう。私が迷いなくここに来れたようにアリスも私がここに来るとわかっていたのだ。どうしてすれ違ったりぶつかったりしたのか、かえってわからなくなって、おかしくなる。私が笑うとアリスも笑った。

「ただいま」

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