16
「やっぱり、チサの欲望を奪いたいんだ」
別れてから見た夢の話を終えると、アリスはおもむろにそう言った。
「欲望を奪いたい? それって……」
言いかけたところで、持ち上げていた爪楊枝からもっちり垂れるたこ焼きが落ちかける。あわてて下から頬張ると、ソースとのり香りがガツンと広がり、歯を立てると中からとろりとした食感が広がるとともにたこが運ばれてくる。口のなかをやけどしないように気をつけながら食べる味は、思い出のなかとそっくりだった。
仲直りと状況確認の話し合いも兼ねて、私たちはたこ焼き屋さんに来ていた。幼いころ経営していた老婦人はすでに引退し、息子夫婦と思わしき男女が経営している。それでも店の雰囲気は変わることなく、味も思い出に見劣りしない。窓際の席から見る夜の街が、どこか愛おしく感じられる。
「それで……欲望を奪いたいって、どういうこと?」
ゴクリと飲みこんでからお冷をなめて口を潤し気を取り直してアリスに尋ねる。はふはふとたこ焼きを頬張りながら、きのうね、とアリスは言った。
「じつは昨日、東京に行ってたんだ。向こうの大学に所属している研究者からエスペホについて知っているって連絡があってさ。それでチサの通院に付き添えなかったんだけど」
門の前にアリスがいなかったことを思い出す。だからか、とようやく納得した。アリスはお冷を飲んで一息入れ、先を続ける。
「その先生はエスペホとおなじ国の出身の心理学者で以前は臨床に携わっていたらしいんだけど、過去にエスペホを診療したかもしれないって。それも、警察病院で」
「警察病院って……エスペホは捕まっていたの? 罪を犯して?」
「まだその先生がチリにいたころ、エスペホは殺人幇助の疑いで逮捕されたみたい。その件で有罪となって実刑がくだされ、でも精神疾患が疑われた」
「それで、その先生が?」
「カルテは見ることができなかったけれど、先生が当時まとめたっていうレポートを読むことができた。エスペホとやりとりをするうち、なにか惹きつけられるものがあったみたい。エスペホがどのような人物で、彼の神秘学がどのようなものか、エスペホだけじゃなくてその信者たち、エスペホが逮捕されたきっかけとなった被害者にも話を聞いてまとめようとしてたみたい。途中で自分がおかしくなっていると気づいて執筆を取りやめたらしいんだけど、未完成の原稿だけでもコギトがどうやってその人に成り変わるか知るには十分だった」
「欲望を奪うことが、その方法?」
「エスペホの信者たちは、いわゆる悩みを抱える人たちばかりだったんだけど、みんな揃ってインタビューに対して『願いを叶えてもらった』と答えているの。昔いじめてきた相手や虐待してきた親に復讐できたとか、どうしても抱いていた劣等感を解消できたとか……そしてそれ以来、気分がいいと。ときどき、自分が自分じゃないと思えるくらい、調子がいい、って。考えてみたらエスペホも、真理を求めた結果コギトと出会った。過去の自分が死に、新たな自分が生まれたというのは、コギトを受け容れたことで起きる作用なのかもしれない」
「それだけ聞いてると、コギトを受け容れておいたほうがよかったように聞こえるけど」
「そうも聞こえるけど、違うよ。コギトは危険な存在だ。本当の自分に出会ったと答えた人たちはみんな揃って、だんだん寝ている時間が増えているとも答えてるの。でも先生が家族や同僚のような関係者に取材したところ、そんなことはないっていうの。少しずつコギトが目覚めている時間が増えて、実際の人格が起きていられる時間が減っているんだ。それに、チサを奪おうとしているコギトがそうしたように、コギトは人を殺すんだ」
「エスペホが幇助したとされた殺人って……もしかして
「そういうこと。殺人の実行犯も先生の患者だったみたい。レポートによれば、その人はおそらくもとからサイコパス……精神病質だったんじゃないかと推定されている。診断を完了する前に亡くなったから、たしかなことは不明だとされているけれど」
「コギトが……いや、違う。自殺したんだ」
「彼は他の信者たちと同じようにエスペホの儀式を受けた。『鏡の間』で、もう一人の自分と出会った彼は……そのもうひとりの自分が、弟を強姦しようとするところを見て、拒絶した。その後エスペホから距離を取るようになった彼は、夢のなかで自分の影が人を殺すところを見始めた。はじめは街で、行きずりの相手を。次に彼の昔からの友達を。異常を感じた彼は警察へ行き、そこで二件の殺人容疑で逮捕された。目撃者がいて、彼が犯人だと証言されたの。でも裁判が始まって、さらなる調査が行われて、事件が起きた時間、その人が現場にいなかったことが判明した。たしかな証拠だった。それを認めたら、ある時刻に二つの場所でその人が存在したことになる。しかも殺害現場へはどう移動したかわからないと来た。でも、無罪判決が出る前日に、その人は自殺した。弟や、事件のご遺族に対しての謝罪が連ねられた遺書は『私が奪われる前に』と始まっていた。先生はレポートにそう書いていた」
アリスはたこ焼きを爪楊枝に刺して警戒するように軽くかじり、それから二口目でまるごと口にいれた。
「欲望を奪うことがコギトが成り変わる条件。でもすぐに成り変わるケースより、段階を追って成り変わるケースが多いんだと思う。自殺した方の例でもいいし、他の信者たちの例でもいいけど……チサの影がなくなっているのも、たぶん、そのせい」
「影が、ない? 私の?」
まさか、そんなはずない。
そう思って、足元を見下ろす。けれど、たしかにそこに狼狽する女の影はなかった。私が座る椅子の影も、座卓に並ぶたこ焼きの影も、私の向かいでおろおろするアリスの影も。どれもが正しく影を落としている。それなのに、私の影だけがない。アリスに視線を戻すと、深刻な顔で残るジュースをすすっていた。
「私って、もう幽霊になっちゃったわけじゃない、よね」
「……まだなだけで、あぶないよ」
「て、手加減してよ……」
アリスはたこ焼きの最後のひとつを頬張ると首を横に振った。
「わたしはチサを自殺させたくない。コギトにチサを奪われるなら、なんとかしてコギトをやっつけたい。冗談いってられないよ」
「アリス……ありが……いや、ちょっと待って。いま、なんて言ったの?」
私以上に私のことを真剣に考えてくれる態度とその鋭い目つきに改めて好意と感謝を伝えようとしたとき、アリスの言葉が引っかかった。
「コギトを、やっつけるって言った? そんなこと、できるの?」
「チサと仲直りするまで方法はまったくわからなかったけど、話を聞いて、話しているうちに、わかってきたよ」
「ほんと?」
呆ける私にアリスはニヤリと笑った。雨雲を切り裂く太陽のように眩しかった。アリスは立ち上がると、私のトレイの最後のひとつに爪楊枝を刺して私の口に放りこんだ。
「向こうからこっちの世界に来てくれたんだ。同じ物理法則に従うなら、一発ぐらい殴り返せると思わない?」
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