6

 鏡には寝癖を整える短い髪の女が映っている。目元にはひどい隈があった。指でつまんで引っぱると、そこだけ皮膚がたるんでいた。大きな溜息がこぼれた。

 眠っているのに起きているのだから当然だった。鏡を見たまま手探りでポーチからコンシーラーを探り当てて、私は不眠の証拠を覆いはじめる。

 アリスと恋人になったあの日から、街をさまよう夢は始まった。

 はじめの数日はどこかの路上だった。少しずつ移動して、三日前に遊園地に入った。そして今日、ついに遊園地の隅々までの探索を終えて退場口にたどり着いた。

 夢だから脈絡がないのは当たり前なのだけれど、規則性があるのが奇妙だった。

 きまって黄昏時にはじまった。私は前回さまよった場所からすこし移動した場所に立っている。夜になるまでぼーっと辺りを眺め回すと、深夜に鳴って歩き始める。つねに体は動かせない。なにかを強く求める渇きに突き動かされている。そして朝陽を迎えるころ、夢だと思っていなかった夢が崩壊していき、落下感とともに目が開く。

 だから最初の夜、翌日学校があるからとアリスの家から泣く泣く帰宅した日の翌朝は、なぜ自分が家にいるのか疑問を抱いたほどだ。意識のうえでは私はずっと起きていて、なんの疑問も抱かないままなにかを求めて街を歩いていたのに、急に弾き出されたのだ。

 夢だと理解するまで時間がかかった。

 あるいは寝ていなかったのかも、と塗っても塗ってもきれいに隠れてくれない隈を見ながら考える。もしかしたら本当に家を抜け出して街をさまよっているのかもしれない。

 そう妄想したくなるほど、夢のなかでも感覚はさえわたっている。視覚や聴覚にいたってはは起きているよりも鮮明だからか、疲れは抜けないどころか蓄積するばかりだ。

 これじゃあ早晩日常生活に支障が出るだろう――そう思ったとき、あんのじょう背後でアラームの音が鳴り響く。

 慌てて化粧ポーチに出していたものを放りこみ、指でかるく色合いをととのえると、そのまま玄関先へと走った。

「チサ、ごはんはー?」

「今日は無理!」

「せめてお昼はちゃんと食べなさい!」

 母の声を背中に聞きながら、チェーンと鍵を開けて玄関を出る。

 朝陽が眩しくて目を細めた。

 いつもの交差点まで走ると、アリスが私に気づいて振り向いた。歩調をゆるめながら横断歩道をわたると、アリスはつらそうに眉をしかめた。

「またうまく眠れなかったの?」

「ええと、うん。バレちゃったね」

「教室行く前にお手洗い寄ろっか。わたしが直してあげる」

 アリスが腕を絡めるまで待って歩き出す。橋を渡って川向こうに出ると歩道が広くなり、にわかに車道を走る車の数が増える。

 川向こうの交差点を曲がって歩道の右側を二人で歩く。すれ違う自転車の上から同じ部活の先輩に声をかけられて挨拶をかえす。今の先輩だよ、といつもなら紹介しているところだったが、横目にアリスをうかがうと、つんとすましたようすでアリスは黙ったまま、こちらを見ようともしなかった。

 まずいな、と冷や汗。

 私が日に日に疲れをためていることに、アリスはとっくに気づいていた。だけど心配をかけたくなくて、お泊りのときを思い出して眠れなかったとか、夜更しして録りためてたドラマを見ていたとか、迫る期末試験対策に躍起になっていたとか言い訳を重ねていくうちに、次第に口数が減っていった。

 そろそろヤバいぞ、と思っていたが、そろそろ覚悟を決めないと――そう思ったときアリスが前を向いたまま口を開いた。

「チサ」

「は、はい」

「いいかげん、話してくれない?」

 う、と口からうめきが漏れる。アリスは目を細めて、視線を私に向ける。せっかくこっちを見てくれたのに、とっさに目をそらしてしまった。

「ふうん。隠し事するんだ。相談もしてくれないんだ」

「いや、隠すっていうか、相談するまでもないっていうか」

「十六年の人生で寝不足知らずだったのに」アリスの視線が険しくなった。「相談するまでもないんだ、なんて言われてもな。走りながらふらついてたのにな」

「うそ」

「チサ今日は後ろから来ていた自転車にも気づいてなかったよ。後ろの人、あわててハンドル切ってたなあ」

 慌てて周囲を確認する。気づかず謝りもしなかったことを後悔していると、絡んだ腕に力がこもる。

「あ、アリス……痛いよ?」

「痛くしてるの。ちょっとは目が覚めた?」

 目は覚めたけど――そう言おうとアリスのほうをまっすぐ見てようやく、視線にこもる心配の色にも気がついた。

「やっと、ちゃんと見てくれたね、今日」

 罪悪感がどっと押し寄せてきた。

 ごめん。そう言いいかけた口に力を入れる。見栄を張ろうとするのはきっと、私が不要な引け目を感じているからだ。

「わかった。全部話す。だから許して」

「なにを許してあげればいい?」

「親友をちゃんと信じていなかったこと」

「ほんとだよ。ずっと一緒なんだからさ」

 アリスはむすっと頬を膨らませる。けれど口元は笑っていた。

「ふたりで分かちあうよ。私が頼りすぎだけどさ」

「わたしのほうが助けられてるもん」

 アリスは腕にぎゅっと抱きついてくる。

「甘えてるって自覚、あるんだよ。ちゃんと見てほしいから意地悪したんだ。ごめんね」

「いいよ。かわいかったから」

「ばか」

 嬉しそうに笑うアリスを見ると、気持ちがすうっと明るくなった。

 歩きながら、私は夢の話をした。アリスの家でのお泊りから帰った日の夜から夢を見始めたこと。規則性を見つけたこと。ちょっとずつ移動していること。どこか見覚えのある場所だと感じること。何分かかけてすべて語り終えると、アリスは難しい顔になった。

「確認だけど、コギトは見ていないんだよね?」

 首を横に振るとアリスは難しい顔になった。組まれていた腕が離れて、胸の前で両手の指が合わさる。名残惜しくて、まだ熱を帯びる自分の腕とアリスを交互に見つめるが、アリスは集中し始めたらしく気づかれなかった。

「見ていたほうがシンプルなんだけどな……神秘体験じゃない仮説を考えずにすむ。実際、あのあと話してくれたように、なんだか嫌な感じはしていたんだし」

「あのあとって?」

「ちょっと……言わせないでよ」

 顔を赤くしてそっぽを向くと、アリスの髪がふわりと浮いて、白い首筋があらわになった。そこに、今はない赤い痕を見出して意味を察する。こちらまで赤くなった。

「神秘体験か夢かはともかく」

 アリスは咳払いをした。

「チサはあのときコギトらしきものを追い払った。すると今度は夢が始まった。立て続けに起きているから、連続しているように見える。二つを結びつける証拠としては、夢のなかの感覚があげられると思う。チサは体は自分の意思で動かせないんでしょ? それって、コギトを見たとき体験したことに近いんじゃないかな」

「でもコギトの一件とこの件は性質が違うよ。あのときは映画を見ているように、他人の動きを見ていると感じた。けどいまの夢のなかで私は、私が動いてるって思ってる。自分が、ずっとなにかを探していると感じてる」

「それは……反論にならないんじゃない?」

「そうかな」

「だってわたしたち、コギトについてほとんど知らないじゃない。もしかしたら自分が動いているって感覚が残ったまま、コギトの動きを見ているだけかもしれない」

「でも夢ってふつう、主観と行動が乖離しないよね。どんな夢でもふつうは自分が動いている感覚を持ってるよね。いま見ている夢は現実そっくりで、起きても寝た感じはまったくしないけれど、性質はふつうの夢と同じだよね。それにアリスは、コギトの一件を考えるときは私の感覚を根拠にしてた。二つが連続しているとするなら、根拠にするものを変えちゃいけないんじゃないかな」

 アリスは足を止めて目を丸くした。

「チサ、ほんとにチサだよね?」

「な、なんだよ急に」

「ごめん、別人みたいで、驚いて。

「チサの考え方を真似しただけだよ。何年も一緒にいたらチサの考え方だってうつるよ」

「そっか。そういうこともありえるか。でもチサ、すごいよ。そのとおりだ。チサの感覚に基づくならば、コギトの件を夢の件と結びつけるものはない。だからコギトが関わっていないはずだ、と考えてみるべきだ。でもチサ、否定する根拠にもならない」

「どうして?」

「因果関係は原因と結果が必ず結びついていないといけない。コギトの仕業であるならば絶対に意識と体がばらばらに動く、ってまだ決まったわけじゃない。だから振り出しに戻るしかないはず。神秘体験かそうじゃないか。どちらも考えてみるべきだ」

「神秘体験じゃなかったら、たとえばどういう可能性があるの?」

「聞いているかぎり、こころの病に分類されるはずだね」

「なら夢遊病は? 寝ている間に歩き回って、本当に街をさまよっている、とか。思いつきだけど」

「あれはあまり行動範囲が広くないから違うと思う。多重人格――解離性同一症なら、コギトの件も説明できるかもしれないけれど」

「どういうこと?」

「解離性同一症には非憑依型という症状があるんだけど、非憑依型の患者はまるで、自分が演出している映画を見ているように、自分が自身の様々な要素から切り離されているように感じることがあるの。突然自分で自分の行動がコントロールできなくなると感じることもある」

「それって……」

「そう。このあいだ離人感、って話したよね。まさにあれなの。もしチサが眠りにつくことが引き金となってもう一つの人格が目覚めるなら、現実感のある夢を見ていると思いこんでいるだけで、別人格が身体を動かすままに、本当に外まで出歩いているかもしれない」

 今まで見てきたことが全部本当に起きてることだと考えて、ぞっとする。母がぐっすり寝ている横を、私の身体のなかにいる私じゃない誰かが通りすぎて、私の家の鍵を持って街にさまよいでる姿。それを私は夢だと思いこんでいる。あまりに現実感のある夢だと。

 だとしたら。もしかしたら今も、こうして話していることも、すべて夢のなかの出来事なのかもしれない。チサと話していると思いこんでいるだけかもしれない。

「加えて非憑依型だと傍目には見分けがつかないことがある。もしチサが多重人格だったとして、その別人格がとても賢かったなら、チサにうまく擬態するかもしれない。親しい人をも欺くことができるなら、もし夜に外に出るときお母様に出会ったとしても、気づかれずやり過ごせるかもしれない」

「お母さんでも気づけないなんて、そんなことありえるの?」

「ありえることよ。そうだったら、わたしでも気づけないかもね」

「私は、私だよ」

 声が震えた。脳裏に鏡のなかから出てきた女の顔がちらついた。アリスは私のほうを見ると、慌てた様子で私の背中に腕を回した。体に伝わってくる熱は夢の中ではありえない感覚だ。あふれてきた涙を拭う。

「ごめん! 不安にさせた」

 首を横に振る。アリスは苦しそうに顔をしかめている。そんな顔はさせたくなかった。

「大丈夫。ごめん、でも、怖くなって」

「普通ならありえない話よ。発症原因を考えたら、特に。解離性同一症はふつう、正直に極めて酷いストレスやトラウマを経験した人で発生する病気。わたしが知ってるかぎり、チサは大きな事故とは無縁だし、大切な人を亡くしていることもない。なんどもお家にお邪魔しているけど、ネグレクトを受けてたなんてありえないもの」

「ネグレクト?」

「育児放棄のこと。それとも……」

 アリスはひどく深刻そうに私を覗きこむ。

「まさか……心当たりがあるの?」

「な、ないない! 絶対ない! 母さんとはこないだ一緒に銭湯いって流しっこした仲だよ。スーパー仲良しファミリーだよ」

「ゲームみたいに言わないで」

 吹き出しそうになるアリスを見て、からかわれていた事に気がつく。頬を膨らませて抗議しようとして、さっきまでの不安が消えていることに気がついた。

 アリスは目元の涙を指でぬぐい、ぽんぽんと私の背中を叩いた。

「だから、ありえない話なんだって」

「うん。ごめん。びっくりしちゃった」

「でも、わかってほしいのは、そういうことも検討しなきゃいけない段階だということ。チサには普通じゃありえないことが起きているんだ。離人感をともなう白昼夢を見て、熱中症で倒れて、コギトかもしれない何かを追い払う幻覚を半覚醒状態のときに見て、その日の夜からおかしな夢を見始めた。こんなのが立て続けに起きるなんて、学会発表でも聞かないよ。神秘体験説じゃないなら――」

「例外中の例外も検討しておきたい。そうだよね」

 今度は冷静に話を聞くことができた。私が言葉を引き継ぐとアリスは小さくうなずいた。

 アリスはそれから、携帯を取り出すといきなりどこかに電話をつないだ。親しげな様子で話をすると、一分か二分して通話を切る。

「信頼できる心療内科の先生を予約した。精神科も併設だから、どっちでも対応できるはず」

「えっ、いきなり?」

 驚いているとアリスは残念そうに首を振る。

「来週に、だけどね。人気の先生だからさ」

「でも急じゃん。それに悪いよ、コネを使って裏口入学するみたいなこと……」

「コネを不正には使ったりしない。開業医の先生だから、お金が出る残業なら引き受けてくれるっていうだけ。どちらの仮説が正しいか検証するためよ」

「そっか……もしこころの病気じゃなかったら、コギト説の間接的な根拠になるのか」

「そういうことよ。まあ、不眠ひとつとっても専門家の診察が必要な段階だから、っていうのもあるけどね。もう八日間も眠れていないなんて、考えもしなかった」

「……そっか。そんなにか」

「気づいてなかったの?」

「疲れがたまってるせいかも」

 苦笑すると、アリスは溜息をついた。

「今日の夜、チサの家に行っていい? 一緒ならちゃんと眠れるかもしれないよ」アリスは声をひそめて続けた。「少なくともあのあとは、チサ、ぐっすり寝ていたんだから」

 思わずアリスの顔を見ると、可愛らしいりんご飴が私を見つめていた。セーラー服の、フロント布の下の鎖骨を思い出し、おもわずツバを飲みこむと、アリスはいっそう赤くなった。

「ばか」

「ご、ごめん」

 とっさに目をそらす。思い出して興奮したせいか、喉がとても渇いていた。

「ところで」アリスはみょうな空気を振り払うように声色を変えた。「話は変わるんだけど……今日の放課後にお邪魔するまえに、寄りたいところがあるんだ」

「いいよ。どこ?」

「わたし、チサが夢のなかで見た遊園地に心当たりがあるかもしれないの」

 予鈴が聞こえてきたというのに、私は思わず足を止めた。

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