7
川向こうの住宅地に帰る同級生らを横目に見ながら、アリスは交差点を曲がって川沿いの並木道に入った。見覚えのある景色なのに、どこで見たのか思い出せない。川のせせらぎ、すこし錆びたガードレール、通りを行き交う車、どれも見慣れたものだと感じる。どうしてこんなに懐かしいのか不思議に思っていると、校門からここまでずっと黙っていたアリスが、どこか恥ずかしそうに切り出した。
「わたしたちが、はじめてデートしたときのこと、覚えてる?」
「えっと……ボーリング場だったよね? 帰る前に遊ぼう、って話になって……でも、近くに遊園地なんてなかったよね」
「そうだけど、そうじゃないよ」
一週間前のことを思い出しながら答えると、アリスはむすっと頬を膨らませた。
「観覧車に一緒に乗ったじゃない。覚えてないの」
「ええ? い、いつ?」
「幼稚園のとき!」
アリスは口をへの字に曲げた。
「すべり台で、今度お出かけしようねって約束して、お母さんにお願いして二人きりで遊んだじゃない」
「行った! ごめん、思い出した」
私たちが通っていた幼稚園には中庭に遊具がそろっていた。遊び場の中心には二階建ての幼稚園とほとんど同じ高さのアスレチックがあり、とても長いすべり台が取り付けられていた。いくつかの区画を持つアスレチックの二階部分のすべり台の前には、宇宙服のヘルメットのような透明な突起がついていて、そこから幼稚園の屋根ごしに、隣町と海を背にする観覧車を見ることができる。そこは私たちのお気に入りのスポットで、お昼休みに眠れないときは、二人きりでそこで過ごした。
「あのとき、デートって言ってたよね。あれ、すごくドキドキした。昔からアリスは大人っぽかったから。だから観覧車ではしゃいだとき、すごく可愛いなって思って……」
「思い出しすぎ」
赤くなったアリスに言われて口をつぐむ。思い出した出来事のせいか、体が熱い。顔をパタパタあおぐ。
「もしかしたらあそこなのかもと思って。記憶にある場所が夢に出てくることってあるじゃない? 現実では時間が経っているからきっと変わっているところもあるはず。もし夢に出てきた遊園地がいまの遊園地と異なるなら、夢がただの悪夢という証拠になるかも」
「逆に夢と同じだったら、コギトの仕業だという証拠になるってことか」
アリスはうなずきながら、絡めていた腕ごとギュッと私を抱き寄せた。
「そういうこと。けどひとまずは息抜きしよ。せっかくのデートなんだからさ」
頷きながら、お散歩デートだ、と意識する。自然と顔が熱くなる。遊園地へ歩いていくだけなのに、アリスといると特別だった。
幼稚園に向かう道で思い出話に花を咲かせる。小学校に上がってからすっかり使わなくなったせいか、この道に忘れていた思い出がたくさんあった。
帰り道に必ず買ってもらったたこ焼き屋さん。いつも横を通るたび私の背にアリスが隠れたやたらとリアルな薬局のカエル人形。子どもの体にはベンチ代わりとなる幾何学的な彫刻の台座。
もちろん、すべてが昔のままではない。景色はところどころ記憶と違った。個人経営のケーキ屋さんはフランチャイズのファストフードに変わっていた。野良猫のたまり場だった古い建物に挟まれた路地裏は建物ごと消えて、雰囲気のいい大きな喫茶店になっていた。
街は思い出と見知らぬ景色が混ざりあい、懐かしいのに新鮮だ。そのせいで、早く遊園地へ行ってたしかめるべきだというのに、寄り道をしては、つい歩調が遅くなる。
「どこも作り変えられちゃうね」
アリスは寂しそうに言った。
「幼稚園も閉園しちゃったよね。閉園したあと、どうなったんだろう」
「知らないの?」
「チサは知ってるの?」
「アリスが知らないなら私が知ってるはずもないよ」
「なんだ。知ってるような口ぶりだから、てっきり」
「建物は残ってるかもね」
「そうだといいけど、なくなってたらショックだなあ」
「街も成長するんだよ。大きくなったね」
「その表現すてきね」
再整備された部分と昔から残る部分が混ざって色違いになったアスファルトの道路を撫でるふりをすると、アリスは頬をゆるめた。
「そう言われたら、なんだかいいかも」
「昔はなにかが変わるなんて思いもしなかったけどね。生まれたときからそうだったから、これからもずっとそうだろうってさ」
「たしかに」
隣で笑うアリスを見て、変わらない、と思った。昔と変わらない、口元を小さく押さえた上品な笑い方を見て、このアリスにも赤ちゃんだった頃があるのか、と不意に気がつく。当然私にも赤ちゃんだった頃がある。アリスがいて当たり前の世界に生きてきたから考えもしなかったけれど、私の世界にアリスがいなかった時代は存在する。けれど思い出せなかった。一番古い記憶にさえ、アリスがいたような気がする。
「どうしたの、不思議そうな顔してるけど」
「どうして仲良くなったのか考えてた。街は変わっていくけれど、私、アリスがいない世界は考えられない。生まれたときは一緒じゃなかったはずなのにね」
「チサと姉妹だったら、とは想像もしたことなかったな。たしか二、三歳のころ公園で一緒に遊んでたんじゃなかったっけ」
「覚えてるの? すごいな」
「流石に覚えてないよ。アルバムで写真を見ながらお母様が話してくれたのよ。私の初めての友達がチサだったように、チサのお母様は初めてのママ友だったらしくて」
「親ぐるみで特別なんだ。父さんが嫉妬するだろうなあ」
「チサのお父様はうちのパパとたまに飲んでるじゃない。お互い様よ」
「そうだったの?」
「聞いてない?」
「うん。家族ぐるみで相性がいいのかな」
「そうかもね。わたしたちが思ってる以上に、体の相性は人間の好みに影響するのよ」
「体のって……」
「聞いたことない? 腸内細菌の相性が他人を好むか好まないかの直感的判断に影響するって研究があるんだ」
そっちか、とへんな妄想をした自分を恥じる。アリスは顎に指を当てる。
「遺伝子によってわたしたちのすべてが決まっているとは言わないけど、腸内環境は食生活と体質でだいたい決まりそうよね。となると、わたしたちが一緒に公園で遊んだのも、なんとなく惹かれあったからかも」
「誰かと友達になるときってそんなもんじゃないかな」
「そうかも、幼稚園くらい小さいと自我も未発達。動物的な次元で惹かれあったのね」
「動物的なってそんな犬猫みたいな……」
「でもそうでしょう。わたしは、自分が論理の人だと思うけど、こればかりはそれだけじゃない」
アリスは流し目に私を見た。うすく開いていた唇が、かすかにゆがみ、無意識に私はアリスの首筋に目を向けてつばを飲んでいた。「あれ――あんな公園、あったっけ」
首を振って気持ちを入れ替えたとき、アリスは立ち止まって指を指した。真新しい公園があった。車道が途切れ、区画がまるごと公園になっている。入口を正面に見て右手には芝生があり、反対側に遊具が並んでいる。昨今見ない、本格的な公園だった。
以前はこんな施設はなかった。入口の注意書きに描かれたご当地ゆるキャラは数年前に発案されたはずだから、記憶を裏付けている。
「このへんが幼稚園だったはずだけど」
飼い犬だろうか、犬と一緒に元気よく走り回っている子供たちを横目に見ながら、なんとなく遊具に近づく。
高校生になると公園の遊具はどれも小さい。鉄棒はよほど体に力を入れて浮かせないとどうやっても足がつくだろうし、ジャングルジムは手を伸ばせばてっぺんに届きそうだ。
だが真新しいアスレチックの周りを歩いて裏側に大きなすべり台が見えたとき、あっ、と声が出た。記憶よりもずっと小さかったけれど、間違いなかった
「ここ、もしかして幼稚園の跡地?」
「ああっ」
アリスも声を上げた。
「言われてみれば、たしかに……すっかり変わっちゃったな……どうして気づかなかったんだろう」
アリスは興奮した様子で声を上げると、アスレチック向こうを周り、階段を使って二階部分へと登っていく。あとを追いかけて、二階へ登ると、先についていたアリスがぐいっと私の手を引いた。姿勢を崩して床に転がると、アリスは笑い声を上げた。
設計はそのままに新しく遊具を作ったのだろう。等間隔に穴の空いた床からは砂のにおいがする。遊具の配置も変わっていたし、気づかないのも無理はないと思った。
「なつかしいなあ」
アリスは目を細める。黄昏時の空がその後ろに見える。淡い夜に照らされる目元が、いつか見た風景に重なる。あのときの私が、迎えが遅れた母を待って、アリスと二人でいたとき我慢していた衝動が顔を出す。
「ここではダメだよ」
見透かしたようにアリスは微笑む。
「それはお家で」
「まだ、なにもしてないじゃん」
「ふてくされないでよ」
笑いながらアリスは立ち上がる。スカートがふわりと浮いて、あわてて目をそらしながら立ち上がり、並んで二人で公園を見下ろす。
遊んでいた子供たちの一人と目があう。高校生が遊びに来るのは珍しいのだろう。この地区では小学校と中学校と高校がちょうど別々の方角にあり、私も幼いころ、中学生くらいの二人組が公園に来ると直接見るのは失礼だと思いながら、気になってしょうがなかった。
「あの子、チサに似てるね」
「そうかな」
アリスと一緒に手をふると、その子は顔を赤くしてそっぽを向く。いたずらっぽくアリスは微笑む。立場が違えばきっと同じようにしただろう。その子に同情していると、アリスが不満そうに声を漏らす。
「でもおかしいな」
「なにが?」
「観覧車だよ。見えないはずないのに」
言われて、ようやく違和感に気づく。ここがかつての幼稚園なら、見えないとおかしいはずなのに。
四方を見回すと海に向けて沈む太陽が、昼の青空を燃やし、夜を呼び寄せている。強すぎる光に目を焼かれないよう手で覆い、指の隙間から街を見ると、ところどころが錆びた鉄塔があることに気がついた。鉄塔は四本あるそれぞれが傾ぎ、もたれあい、ピラミッド状の輪郭を形作っている。見たことがないのに見覚えがあった。
もしかして――そう思ったときには走り出していた。背後に聞こえるアリスの悲鳴を無視して、長いすべり台の上を駆け下りる。途中で姿勢を崩したけれど、うまく後ろ側に転んで尻餅をつく。そのまま滑り降りたところで鞄を置いてふたたび走る。記憶をたどるように、走って、走って――遊園地の門の前で、立ち止まる。息を切らしながら顔を上げる。
門の向こうには、なにもなかった。
メリーゴーランドも、お化け屋敷も、観覧車も、なにもない。レンガ道を行き交うのは、作業に勤しむ作業員と工事に使われる乗り物たちだけだ。
「ただの、夢だったんだ」
口にした途端、体が重くなってその場に座りこむ。笑っていた。夢に怯えていたことを。いもしない女の言葉に惑わされていたことを。あいつは、最初から存在しなかったのかもしれない。涙が出たけど、気にならなかった。
作業員が声を上げる。排煙のにおいに目を向けると、門の脇からメリーゴーランドが運ばれてきた。夢のなかを周り続けていた馬たちは、まだ解体されたことに気がついていない。夢見心地な笑みのまま、これから彼らを捨てに行くトラックに積みこまれていく。
夢から覚めれば、逃げ出すこともできるだろうに。どこか憐れむような気持ちで見ていたとき、一頭の白馬と目があった。
耳が欠けた白馬は、笑顔を浮かべて、私を見ていた。
同じだった。忘れていた夢が脳裏に蘇る。この景色は現実だ。知らなかったはずの白馬をどうして私は知っていた? 夢が、私から生まれ出るものなら、それは、つまり――
くらくらした。
蓄積した疲労が押し寄せてきた。頬が、冷たいものに触れた。指一本動かせなかった。
意識が途切れる間際、思った。
夢なら醒めてくれ
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