8

 目を覚ますと夜だった。私はまた渇いていた。背後を見ると、見覚えのある門があったが、奥には目ぼしいものがなく、折り重なる四本の鉄塔が、失われゆく夢を支えるように立っていた。

 視界がめぐり、なにかを探るように辺りを見回しながら動き始める。けれどここにはないことすでに知っていることに気がついて、私は歩みを進める。

 大きな影が見えてきたところで足を止める。ひどく懐かしい影の頂上からは、残り香だろうか、くらくらと、視界が揺れるほどに濃い甘さが漂ってきていた。

 景色が上昇する。影の輪郭の切れ間から中に入ると、強いにおいに涎が垂れそうになった。求めているものがここにあるかもしれない――切望に胸を躍らせながら、動き始める。

 だが、存在していた区画をすべて確認しても、それはなかった。どこかに動いているのかもしれないと思って、影のなかを隈なく探すことにしたけれど、収穫はなかった。

 ひどく悲しい気持ちになって、いまだにおいが濃い床の上に身を横たえる。あふれそうになる涎を、こらえながら、それがどこにいるか考える。続けていれば、きっと見つかる。だって、私はそれがどこにいるのか、本当は知っているはずなのだ。ひとつずつ思い出していけば、きっと届くはずだ。自分を慰めるように、そう言い聞かせていると、涙が溢れてきたのか、影が溶け、遠くに見える鉄塔が、歪み、球をなす。まだ足りなかった。もっと探したかった。苛立ちながら、歯噛みする。誰かが邪魔している。私はその誰かに、強い憎悪を抱く。

 立ち上がる。影から抜け出す。いないならくすぶっている暇はない。邪魔者でも、求めるものでも、どちらでもいいから、どちらかだけでも、見つけるべきだと考えていることに気付く。

 名残惜しさを振り払うように急ぎ足で影から離れる。強い匂いから距離を取ると、どこかで見たような彫像や、カエルの人形が、影の中から私を見ていた。

 一度あのにおいに触れたせいか、いままではなにも思わなかったのに、まるで迷子になったような不安が私に取り憑いていた。だからこそ求めていたとわかっていた、けれど、においのない世界に慣れていたせいで忘れていた。久しく食べていなかったチョコレートは胸焼けするほど甘く思えるのに手を止められなくなる。渇きが、餓えが、私を動かす。

 気付けば見知らぬ土地にいた。寄る辺を失って、ますます、私は怯えに囚われる。ここは砂漠だった。生きるために必要なすべてを奪うのに、与えてくれない。誰でもいい――そう思ったとき、びちゃびちゃとなにかが路面に落ちていることに気がつく。

 見上げるほど大きなビルの合間に辺りよりいっそう黒い影がある。そこに、誰かの輪郭があった。やわらかそうな髪の毛の、小柄な女が、溜め込んだ汚れをすべて吐きだすように、身体を抱えてうずくまっている。饐えた臭いのなかに、かすかに、あのにおいに似た甘さを覚える。

 気付けば女に近づいていた。求めていているものと、それは似ても似つかなかった。けれどこちらを見上げたとき、空いたブラウスの第一ボタンの下に見える鎖骨の形と、首の細さが、ひどく似ていた。

 涎が口の中に溢れた。この女なら満たされるかもしれなかった。試すことにした。私は顔を近づけた。吐瀉物で汚れたその顎を撫で、上を向かせて、露わにさせた首筋に、噛みついた。苦悶ごと歯を埋めると鉄臭さのなかにかすかに求めていた甘さが混じった。啜れば啜るほど苦く泥を噛むような味気なさに顔をしかめたくなったけれど、甘さを感じれば感じるほど、飢えが癒やされた。女は私の肩に爪を食いこませ、それが痛かったはずなのに、だんだんと恍惚が勝り、どうでもよくなっていった。

 味は劣るかもしれないけれど、食べれば、満たされるのだ。

 そのことに気がついた途端、視界が球形に歪み、離れはじめた。

 もっと味わっていたいのに、そう思えば思うほど、味が消えて、匂いが消えて、私が私だけになっていく。

「チサ、チサ? 起きてるの?」

 景色は揺れて、崩壊した。思考が宙吊りになって、電源を点けたように辺りが明るくなった。

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