致命傷
9
まばたきをすると、崩れていた視界のなかにふわふわの髪の毛が見えた。滲んだ視界のなかでは、そのかわいらしい栗色も、白い肌が象る整った頭の形も、不出来な粘土細工みたいだ。
目元がかゆくなる。瞼をこすって、まばたきをする。視界が明瞭になる。
「チサ、大丈夫……?」
明るくて、口の中が気持ち悪くて、戸惑ったように、アリスが私をのぞきこんでいて、その首筋の白さに、私が感じるはずのない食欲を抱いた。
甘い匂いに、意識がぐらつく。視界がちらつく。危険信号に従うまま逃げるように飛び退くと、背中がなにかにぶつかった。花柄が縫われた布地の壁だった。崩れた姿勢を支えようと腕を伸ばすと、左手がなにか柔らかいものを押しつぶした。見ると、ベッドと私の手に挟まれて、手縫いらしきうさぎのぬいぐるみが顔を歪めている。胸に縫われたチューリップのアップリケを私は知っていた。これは、私がプレゼントしたものだ。
「チサ。深呼吸して。ここにいるから」
腕を掴まれる。手首の感覚が鋭くなって、私の肌が脈打っているのがわかった。私は荒くなった呼吸を、無理やり、言われるままに、整える。
目覚めを失った夢は意識に始まりを与えない。今までの夢は強い現実感が支配していたが、それでも目覚めの感触はいつもあった。けれど今は違う。いまこうして、私を私だと感じる私がいつ目覚めたのか、わからない。私が今どこにいるのか、教えてくれていた直感が混乱している。夢でもいいし、現実でもいい。どちらかでないといけないのに。
息を整えながら根拠を探る。現実である根拠。夢にないもの。現実にだけあるもの。
布団のなかにこもった熱、汗をすってじっとり皮膚に張りついた制服の重さ、汗で気持ち悪い髪の毛、そうした、不快感の総体。
だから、夢じゃない。そうだ、光も違う。夢のなかで世界はすべてが深い色に沈んでいる。まるで影から世界を見ているように。この風景は違う。だからこれは夢じゃないはず。
けれど、間違えていたら?
感覚が間違えているなら、私の自分の考えのどこかに誤りがあっても。気付くことはできない。
現実を定めるものがこの頭の中にしか存在しないなら、それは薄っぺらくて、脆い。
「チサ」
ふたたび、名前を呼ばれて顔を上げる。アリスは不安そうに私を見ている。私の手首を掴んでいた手に、もう片方の手を重ねる。温かい。確かにそこにあるものだと、感じ取ることができた。
体から力が抜けて、途端に姿勢を支えきれなくなる。アリスは私の身体を受け止めながら、またベッドに横たえてくれた。
「落ち着いた……?」
「ごめん、ありがとう。たぶん、大丈夫」
起きて、まだなにもしてないせいだ。話していれば、次第に夢を忘れるだろう。いつもそうであるように――そう言い聞かせて、布団を身体にかけなおす。
アリスは椅子に腰掛けていた。制服ではなくナイトウェアを着ていて、そのうえにエプロンをつけている。ベッドのそばのサイドテーブルには水差しが置かれていて、そのそばには温度計とか濡れタオルとともに、医療用と思わしきステンレス製の道具が散らばっていた。
「私、どうしてたの……?」
「うなされてたの。見たら、目をうすく開けたままで、歯ぎしりをしているというより、なにか噛んでいるみたいだったから、それで……起こしてごめんね」
アリスは水差しからコップに水を注いで、飲むようにうながしてきた。
「うがいして、ここに吐き出して」
口に含むと痛みが走った。口のなかで水を転がすたびに、傷口をひっかくようにじりじり痛む。差し出されたステンレス容器に水を吐くと、うっすら赤色が混じっていた。
「やっぱり噛んでた……チサ、口を開けて中を見せて」
言われるがままに口を開けると、アリスはペンライトを灯して私の口を観察した。しばらくして、ホッとした様子で灯りを消す。
「頬の内側を噛んでるみたい。血は出てるけど、ほうっておいても治るはず。ひどかったら、イソジンとかのうがい薬をつけたらましになるから使ってね」
「……ありがとう」」
「倒れているチサを見つけたときは、心臓が止まるかと思ったよ」
不安にさせないように、だろう。アリスは微笑むと、どこか軽い口調で言う。目の端に浮かんだ涙はそれが誇張でないことを物語っている。
「お母様には連絡して、うちでお泊り会することにしたって伝えておいた。だから話せるようになったら、話を聞かせてほしいんだけど……あとのほうがいいよね」
アリスは空になったコップに水を注いだ。飲むかどうか仕草で聞かれて、首を振る。いつもは目覚めたあとひどく喉が渇いているのに、いまはむしろ満たされている。
「いま話すよ」
「本当に? 無理してない?」
「心配しすぎだよ。このとおり、ふざけられる程度には元気だから」
私は力こぶを作るようにポーズをとる。アリスは不安そうにしていたが、私がむしろ話したがっていることに気づいたのだろう。苦笑しながら、私に話をうながした。
「じゃあ、チサは夢が現実の続きかもしれない……そう考えているってことなのね? 別人格が見ているものを、夢として見ているんじゃないか、って。たしかに知らなかったはずの風景を知っているのは不自然ね」
夢のことを伝え終えると、アリスは胸の前で手を合わせた。考え事のするときの仕草だ。その表情に驚きは少なく、むしろ落ち着いてすら見えた。
「驚かないの? だって……その」
「チサが人を殺したかもしれないから?」
言えずにいた一言をあっさりと口にされて、かえって私のほうが言葉に詰まる。アリスは安心させるように微笑んだ。
「そりゃ、警察には連絡しておこうとは思うけど……だって、この家に連れて帰ってからたっぷり六時間、チサは寝てたんだよ? そのあいだわたしはずっとこの部屋にいた。いちどもチサは外に出ていない。罪を犯すようなこと、できるわけないじゃない」
「六時間? 待って、いま何時……」
「午前三時くらいかな。こんな時間だけど、きっと二度寝できないよ」
起きてからずっと部屋は明かりで照らされ、重たそうなカーテンが窓を覆っていた。そのせいで私は時間を忘れていたのだろう。
「そのあいだアリスは寝てないの?」
「ふだんコーヒーを飲まないおかげで、カフェインがすっかり効いてるよ。お手伝いさんが帰る前に淹れてくれたんだけど、こういうときじゃないと飲みたくない味だった」
ぺろ、とアリスは舌を見せる。
「ごめん、起きてもらってたなんて……」
「むしろわたしにソソウがないか心配だよ」
「そんなことない。ほんとに……迷惑かけてごめん」
「こんなときだし気にしないの。申し訳ないと思うなら、元気になってからたっぷりお返しちょうだい」
「ん……ありがとうございます」
「どういたしまして。とにかくチサが寝ている間わたしはずっとそばにいた。だからチサが夜に街へと抜け出して、人を殺したかも、という疑いは否定される。チサは殺してない。大丈夫だよ」
「でも私、倒れてたんでしょ? アリスに見つけられるまでに、街を動き回った、っていうことは……」
「ありえないわけじゃない。でも考えがたいよ。理由は二つ。夢が現実の延長だとするなら、辺りが真っ暗なのは真夜中だからよね。でもチサが倒れたのはだいたい午後八時ごろだからありえない。もし夢の風景が暗いことは多重人格が目覚めているときの特徴だとしても、誰にも会わず街を歩き回る、なんてありえない。人通りが極端に少ない深夜じゃないとおかしいよ。それにわたしがチサを見つけたのって遊園地の近くなのよ? たしかにチサが倒れた場所は門の前だったから見つけた場所と少しズレている。でもわたしがチサに追いつくまでに公園に戻ったなら、途中で鉢合わせないとおかしいじゃない」
「なら、あれは私じゃないの……?」
「少なくともチサの身体が勝手に動き回っていないことはたしかだよ。だから私は、チサはコギトが見てるものを夢に見ていると考えるほうが自然だと思う。チサは殺してない」
「ちょ、ちょっと、待ってよ」
思わず大きな声が出た。
「だとしても、人が殺されたかもしれないんでしょ。私のせいで、私がコギトをどうにかできなかったせいで――」
「チサのせいじゃない。チサが悪いなら、わたしにだって責任がある。あのとき、エスペホの技法を試したのはわたしなんだから」
アリスは言った。静かな声だった。冷たさすら感じた。けどその目には、アリスらしい強い責任感があった。
「わたしたちのせいなんだから、わたしたちでできる限りのことをしたい。だからこそ、冷静でいないといけないと思うんだ」
「それは……そうだけど」
言い返せずにいると、アリスは目を伏せた。
「難しいことを言ってると思う。でも、今のわたしたちにできることは、コギトをなんとかするために準備することだけ」
「私にできることはなにもないの?」
「文献を読んでもらうことも考えたけど……それよりも、身体を休めてほしいかな。チサ、身体の調子、寝る前よりもいいんじゃない? 少し動かしてみてよ」
腕を動かす。たしかに身体の調子はよかった。まだだるさは残っていたけれど、気を失う前よりはるかに調子がいい。
「寝た気はしないと思うけど、チサはたしかに寝ているんだよ。だからチサの体を守るためにも、わたしはちゃんと寝てほしい。夢を見て、落ち着かないかもしれないけれど……いざというときのために、備えていてほしいんだ」
「いざというとき、って?」
「いまは確証がない。だから言いたくない」
「……言いたくない? どうして」
「もう二度と失敗したくない。これ以上、わたしのせいでチサを危険にあわせたくない」
アリスは断固とした口調で言った。
「今までのわたしは傲慢だった。数学の問題を解くみたいに、チサの身に起きた不思議なことも解決できると思ってた。でも、そのせいで状況を悪くしてしまった。不眠ひとつとっても、わたしの手に負える次元を超えている。起きたかもしれない殺人事件は警察に、チサの不眠は心療内科に、それぞれプロに任せるしかない。わたしが力になれることがあるとすれば、エスペホの文献を調べて、解決策があるかどうかを調べることと、チサにもっとも近い一人として、そばにいて支えることだけ。わたしは、こんなことになってしまった責任を取らないといけないんだ」
違う、と口をついて出そうになった。アリスのせいでこうなったんじゃない。けれど私があの夢で見たものに対して責任を感じているように、アリスもあのとき自分が行ったことに責任を感じていることに気づいて、言えなくなった。もしも私がしたことで、アリスが同じような目にあったら、アリスに私のせいじゃないと言われても、私はぜったい自分を責める。私がやれることは、アリスを信じることだけだ。
「わかった。でも――」
「二人で分かちあう。何かあったらすぐ伝えるし、チサをちゃんと頼るから」
アリスは微笑むと、ふいに顔をしかめて、顔を隠した。とても大きなあくびだった。見ていたことに気がつくと、アリスは恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「見ないでよ」
「ごめん」
謝ったけど視線は動かさなかった。そのことに気づいてか、アリスは不満そうに唸った。
「もう……とにかく、警察に電話してくる」
立ち上がると、アリスは頬をふくらませながら振り向いた。
「ついでに眠れないチサのために漫画とか本とかとってくるから」
「ん。わかった」
うなずくと、アリスはベッドから出ないように念を押してから部屋を出た。
広い部屋に一人になる。ネットでも見ようと思ってスマホを探すと、水差しのそばに置かれていた。ふかふかの枕に体をあずけてアプリで漫画を読んでいると、扉の向こうからアリスの声が聞こえてくることに気づく。 近いのに、遠く。どこか寂しい。
戻ってくるまで待っていよう。そう思いながら、ページをめくっていると、不意に、眠気が押し寄せてくる。今までちゃんと寝れなかった分、身体が眠ろうとしているのか。耐えられないほど瞼が重たくなって、まばたきをする。
世界が暗闇に覆われると、肩がこわばる。
寝ることが怖かった。
けれどアリスの匂いが気がついた。後ろからも上からも、どこからもアリスを感じることができた。
体から少しずつ力が抜けていった。抵抗しようとは思わなかった。
夢を見ることはこわかった。でもアリスがいるなら大丈夫だ、と思えた。
私は瞼の裏の暗闇を見ながら、深く息を吸いこんだ。
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