10
ボールが飛んでくる。追いかけて、歯を食いしばりながら撃ち返す。手がしびれるほどのサーブに、目が覚めるようだった。
「反応鈍いぞ!」
中央に戻ろうとしたときにはもうレシーブが帰ってきた。部長が発するプレッシャーが、足を重くする。負けるものか、と歯を食いしばる。足に意識を向ける。走れ。追いつけ。届いたらすぐに渾身の力で打ち返す。戦略を考えながら戦える相手ではない。相手のリズムに乗りながら、崩しどころを探らなければならない。それはアリスと戯れに弾いたピアノの即興連弾に似ている。足運びに、呼吸に、ボールに、部長が表現されている。自分自身を返さなければならない。
「地平、集中!」
「ハイ!」
私を見ろと部長が叫ぶ。叫び返してボールを打つ。なにも考えなくていい。ボールだけ追いかけろ。言い聞かせていたとき、視線を感じる。目を向けると、テニスコートの緑が消えて空が私を包んでいる。
足が止まる。体がこわばる。現在だけに意識を向けていたから、とっさにそれが何かわからない。逃げ水だ、と理解した瞬間、不意にこれが現実ではないんじゃないかという不安が、蛇のように頭をもたげた。
息が止まる。
地鏡に映った私が怯えた目で私を見ている。まるで、本来いるべき場所を奪われたように。
奪われてない、と口のなかでいう。ここは現実だ。これは鏡だ。夢ならこんなに汗をかかない。夢ならこんなに太陽は眩しくない。青色は青色を描き空は遠く影は地面を離れない。けれど、と怯えた目の私が問いかける。暑さも汗もうまく感じていないじゃないか――
「地平!」
部長の声が思考を中断した。
顔を上げながらなにかが向かってきていることに気がついてラケットを構えながら身をよじる。次の瞬間強い衝撃が手首を殴った。指がじんとしびれた。ラケットが手のひらから離れて、悲鳴じみた音を立てながらコートに落下する。返しそこねた、とどこか冷めた気分で出来事を見下ろす。地面が揺れている気がして、目の異常に気がつく。こめかみを揉むように親指でかるく押しこむと、口のなかで涎がでた。
「おい、地平、大丈夫か」
部長はネットの前に立ち、私を心配そうに見ていた。立ちすくんだまま答えることができなかった。テニスウェアの首元がはだけて、浮き上がった鎖骨に汗が溜まっているのが見えた。目をそらしながら頷くと、部長は「大丈夫じゃなさそうだな」と溜息をついた。
「最近、様子がおかしいぞ」
「すみません」
「体調悪いのか」
「少し」
「ずっと?」
首を横に振る。本当のことは隠している。見抜かれているかもしれないが、否定しているうちはそうだと認められない。黙って、部長の目を見返すと、じっと部長も私を見ていた。
部長はしばし考えている様子だったが、首を振るとジェスチャーで、今日は終わり、と示した。
「やたらと太陽がまぶしいから、熱中症かもな。うちの女テニのエースにはこの程度でへばってほしくはないが、やられてもらうともっと困る」
「がんばります」
「地平、シャワー浴びたら帰っていいから。疲れ取りな。熱中症はシャレにならんし」
「でも片付けとか……」
「一年と一緒にやっとく。とにかくおまえは上がり! お疲れ様!」
強い口調で言い切って部長は隣のコートで球拾いをしていた一年の子に声をかけた。その背中に礼をして、ラケットを拾い上げてコートを去る。防風ネットの隙間から出たあと、コートを振り向くと、もう逃げ水は見えなくなっていた。
大丈夫だ、と口のなかでつぶやく。まだ大きな支障は出ていない。周囲の気遣いに頼りながらだけど、うまくやっていけている。だから不安になる必要はない。現在だけに集中すればいい。先のことを考えても、これまでのことを考えても不安に取り憑かれるだけだ。手首のミサンガに触れる。
アリスに作ってもらったミサンガ。いまが現実だと示してくれる錨の手触りは柔らかい。左手首を包むピンク色の紐をいじりながら歩いていると、いつの間にかシャワーブースにいる。辺りをうかがっておかしなところがないことを確かめたあと、どうやら無意識にここまでの準備を済ませていたらしいと承知して、蛇口をひねる。熱と湯気が私を包んだ。
「あのあと、警察は死体を発見しなかった。どこにも殺された女性はいなかった。夢に見た殺人は不審者情報として処理されて、それ以上はなにもなかった。学校は中間考査の期間を過ぎて、期末考査へとカリキュラムは進んでいた。夢の街を探ることはできないままで、夢で見た場所を歩いてもおかしなところはなにもない。メリーゴーランドのことは、偶然かもしれないけれど、たしかなことはわからない。私がしなきゃいけないことは、日々をやり過ごすこと。時間が過ぎるのを、待つしかない」
息を吐いて、体を洗いながら、習慣のままに現在地を確認する。声は跳ねる水音にかき消される。喉から響く声が鼓膜を揺らす。それだけでいい。聞かれなくていい。声が出ることを確かめることができればそれでよかった。
「しんどいなあ……」
思わず口にした言葉もまた、流水に洗い落とされる。
夢は日に日に終わりを失い、始まりをも忘れた。気づけば夢を見て、いつのまにか現実の朝を迎える、そういう日々に変わっていった。そのせいで、ときに、不意に、この世界が夢ではないか、こうして考えている私は私ではないのではないか、私を夢見ている私がこうして考えていると錯覚しているだけではないのか、そう感じるようになった。。
終わりのない夢は現実をいつまでも醒めない夢にしてしまう。木の葉に橙色を与える陽射し、銃弾のように向かってくる黄色いボール、湯気と熱で汚れを流し落とすシャワー、どれもが、連続性を持った不条理ではない夢と区別がつかない。現実はそういうものだ、理解していても、本当に夢と現実が境目を失っていると、探り探りでしか動けない。
夢の風景は、小学校に向かった。グラウンドをうろつき、図書室をうろつき、教室をうろついた。ここ一週間はずっと小学校の夢だ。誰かと会うこともない夜を渇望の中に過ごし、朝に気づいて学校に行く。そういう生活が続いている。
「ストレスがたまるとそういうこともありますよ」と睡眠外来の医者は言った。「離人感はより重たい症状のサインでもあるけれど、人が多かれ少なかれ抱えているものです」
じっさい、ストレスは溜まっているから、間違いじゃない。夢の話もすべてしているわけではなく、症状を伝えているだけだから、当たり障りのない回答になるのは仕方ない。睡眠導入剤を使っても眠れないから問診が中心になるのは納得できるし、その間文献調査にアリスは励んで手がかりを探していることも知っている。けれどもこれがいつまでも続くと思うと気が滅入りそうだった。
「かくいう私も、いまこうしてあなたと話していることをどこか遠くに見ているんですよ」医者は続けた。「昔から疑問でした。どうして生まれてきたことを認めることができているんだろう。存在していることを納得できているんだろうって。いやあたりまえのことですよ。だってこうして話しているんですから。けれどこのすべてが、誰かが夢見ていることではないとどうして断言できますか? たとえば、目覚めるとする。空が真っ赤だとする。それを見て、ああ夜だと思うことがあってもいいと思うんですね。みんなは昼だと言うかもしれない。あるいは夕方かもしれない。けれど、夢のなかで論理は通じなくなります。ネズミが樽のなかで増えすぎてブラックホールへ変わり太陽系を飲みこむこともありえれば、あなたが突然ただのまち針に変わって縫い物に留められることもありえる。むろん私が発狂していないから、あるいはこの世界が発狂していないから、そんな事が起きないだけなんです」
「もしかして狂っているのはあなたなんじゃないですか。それとも、私はそういう病棟に入れられたのですか」ためらいがちに尋ねると医者は笑った。「あなたは正気と狂気の境界線を知っている。だから逸脱した言動に反応することができた。症状が続くのは心配ですが、もっとあなたは自分を信用していいんですよ」
気に食わないやり方だったが、腑に落ちた。
狂気を真に受けるようになれば、その人は狂気に落ちている。
「逸脱行動を取ってみるとわかりますが、意外と心地良いものですよ。自分に向かって落語を語るようなものです。やりすぎてはいけませんがそういう楽しみを見つけてもいいかもしれません。子供のころ、意味もないのに大声を出して喜ぶひとがいませんでした? ああいう手合いは、逸脱の快楽を楽しんでるんですよ……」
試してみる価値はあると思った。
シャンプーその他一式をカゴに入れて脱衣所に戻る。白い棚に一つだけ置かれた黄色い袋が目立っている。体を拭いて、袋から取り出した着替えを済まして、並ぶ椅子の一つに腰掛ける。
立ち並ぶ鏡に人影がうつりこむ。パンダみたいな目をした女の子がいた。
「ひどい顔だね」
パンダ女子は苦笑する。泣きそうな顔をしていた。私も泣きたかった。沈着したクマは容易には取れなくなる。しょうじき、困る。
化粧用ポーチからファンデーションを取り出して目の下に塗ると、パンダ女子の顔色が良くなった。身体がまとう熱気のせいか鏡面が曇った。タオルで拭く。拭きながら、詮無いことをしている、と思う。鏡を拭いたところで色が変わるわけではない。なにかを隠しているヴェールが剥がれ落ちるわけではない。パンダ女子が消えてきれいな私が戻る、なんてことはない。時間をかけないといけない。
でもいつまで?
「どうして私なんだろう」
パンダ女子は言った。
「私、そんなに悪い事したかな。アリス、そんなに変なことしたかな。どうして眠れないんだっけ。けっきょく、なにが悪いの? どうしてこうなったのか、わかんないまま、毎日ずっとこうしてなきゃいけないの?
私は言った。
「怖がってるんだね」
目には涙が浮かんでいる。正解を引いたらしかった。なんだか気分がよくなってくる。ちゃんと客観視できてるらしい。私は別に人の顔色を見て内心を推測できなくなっているわけではない。だから本当のことを伝えてあげる。その怯えが無意味だと知れば、きっと安心するから。
「私はここにいるよ。そこにいるのは私の影で、鏡の向こうにはなにもない」怯えた目をした女の子に話しかけ続ける。「中学校で習ったでしょ。鏡の向こうにはなにもない。光が反射して、向こう側にあべこべの世界を生み出しているように見せかけてるだけ」
だから落ち着けばいいよ。そのうち、どうにかなってしまうから。信じて待てばい。
パンダ女子と見つめあう。疑うような目つきを、安心させるように、変顔をしてみせると女の子も同じタイミングで同じように唇をゆがめて寄り目をした。あまりにぴったりすぎて、吹き出した。パンダ女子も一緒に吹き出した。こらえきれずにアハハと笑ってみた。誰もいない脱衣所に声が響いた。不安をなかから外に吐きだすように笑ってみた。もっと声が響いた。
目をこする。おかしそうに、女の子も笑っている。息を整えて、真面目な顔を作った。女の子と向きあい、落ち着かせるように頬をゆるめる。
「どうにもならないことをどうにもならないって嘆いたところでしょうがないよね。だいたい、あなたはそこにいないんだよ。夢はいつか終わるんだから」
「本当かな。それって妄想なんじゃないの?
不意に誰かの声がした。
誰かいるのか。こみ上げる恥ずかしさのままに立ち上がる。振り向くと、しかしそこには誰もいない。辺りを見回しても、けれど、誰もいない。
「そうやっておかしくなったフリをしていると本当におかしくなるよ。そんなこともわからないなんて、本当におかしくなったんじゃない?」パンダ女子は意地悪い目つきをしていた。「私、そんなこと言ってない」
「妄想なんでしょ、それも。ところでいつ目覚めたんだっけ、チサ。チサはこれが現実かどうかわからないんでしょ。だったら夢だっていいと思わない? いや、きっとそのほうがいいよ」
「うるさい!」
手のなかにあった布を投げつけるとパンダ女子が布の向こうに隠れた。重力に従って化学繊維が陶器のうえに落ちて溶けるように重なりあうと憔悴した顔の女の後ろに呆然と部長が立っていた。
「……地平? だいじょうぶ、か?」
見知らぬものを見るような目が怖くて逃げ出した。
夢じゃないのにどうしてこんなことをしてしまったんだろう。強く後悔を抱いてももう遅い。逸脱行動がどうだなんて言葉に惑わされなければよかった。惑わしたとしたらあの医者は嘘つきなんだろうか。そもそも、本当にあんな会話をしたんだっけ。明証的に真であるものだけを真として受け入れなくてはいけない。いま現実と夢の区別がつかないのならなにを経験しても夢だと疑わなければいけない。けれどあのとき私はミサンガをつけていた。夢のなかではつけていないミサンガ。なら現実に、あんな会話をしたはずだ。
けれど根本的なところで不安をぬぐえない。感覚が間違っているならこの思考も間違いを含んでいるからだ。信頼できる客観が必要だ。
アリスに話そう。私の感覚は信用できないかもしれない。けど、アリスの感覚は信頼できる。今日は通院日だ。いつも付き添ってくれる。だから待ってくれてるはず。
校門へ走る。誰かとぶつかる。謝りながら姿勢をととのえて、部活が早く終わったのだからメールを送らないといけないことに気付く。スマートフォンを取り出して画面をタップすると、どうしてだか液晶は黒いままで、舌打ちをして鞄に戻す。
顔を上げると二本の門柱とそのそばに立つ大きな木が見える。
しかしそこには誰もいない。
木の裏にも、門柱の影にも。どこを探しても影も形もない。
アリスはどこにもいなかった。
辺りを見回すと、通りすぎる同じ制服の生徒たちからじろじろと視線を向けられている気がした。見ていないのかもしれない。見ていないフリをしているだけかもしれない。けれど当たり前のように昨日の続きとしての今日を過ごしているひとびとから見たら私の行動はどこか逸脱しているのだろう。木陰に身を縮こまらせると空気がひやっとして、驚いて見上げると、アスファルトに降り注ぐぎらつく太陽を遮る巨木の威容に押し潰されそうだと思って、また走りだす。
なりふりかまっていられなかった。
左手首の柔らかい感触をたしかめる。アリス。頭に睡眠外来の医者が浮かぶ。アリスが紹介してくれた相手だ。信じていいはずだ。
本当に?
さっきまでとは矛盾しているんじゃないか、と誰かが疑う。黙れ、とチサはそいつを黙らせる。
交差点を渡り街へ行く。知っている街なのに知らない街みたいだった。見覚えのあるサラリーマンと見覚えのない中学生、見覚えのある店舗の看板と見覚えのない歩道の広さ、あべこべの二つがぐちゃぐちゃに次々目に飛びこんでくる。知っている道を歩いていけばきっとアリスに連れて行かれたクリニックに着くだろうと思って走って、けれど正確な場所を思い出せなことに愕然とする。アリスに連れて行かれたはずのクリニックは、この街にあるはずで、けれど、本当にチサはクリニックなんかに行ったのか?
医者の顔は思い出せたのにそれ以外のなにも思い出せない。
迷ううちに日が傾く。街は夢の色に沈んでいく。あらゆるものの輪郭がぼやけて、すこしずつ注がれていた熱が減じていく、夜の訪れ、逢魔が時。濃度を高める影が伸び、光の中を歩こうとしても影に飲まれそうになる。聞き覚えのある泣き声が響く。聞き覚えなんてありえないのに。それはかつて通った学習塾と、隣接するオフィスビルの間にある薄暗がりから聞こえている。過去から響いてくるように。
ここにアリスと一緒に通った。そしてあの建物の裏で泣きついた。離れ離れは嫌だと言って、アリスの進路を縛りつけた。
遮られた光のなかに潜む夜の気配がして足を運ぶ。むせ返るような甘酸っぱいつんとしたにおいが漂っていて、頭がぼうっとした。息を止めて、夜が淀む沼地を渡ると、記憶とそっくりに二つの人影が折り重なっていて、目を疑う。かつてチサがそうしたように、短い暗い髪の少女は、太陽に灼かれた砂漠のおもてに似たまぶしい髪の少女の胸にすがりついていた。
アリスと同じ学校へ行きたかったのに、どうやっても届きそうにないとわかった日。あの日はじめて、駄々をこねてアリスに泣き縋った。離れたくない。それが繋ぎ止める意味しかなくて、可能性を閉ざすと心のどこかでわかっていたのに。
間違いを犯したとすれば、あのときだろう。
「……なに、あれ?」
訝しむように泣いていたはずの少女が顔を上げた。もうひとりの泣きつかれていたはずの少女も振り向いた。とうぜんその子はアリスではなく似ても似つかない別人だったのに、なのにふたりともひどく美味しそうだった。
「なにって……なに、あれ?」
「……影?」
甘いものを、食べたくなった
「ちょっと、あれこっちに来るよ!」
渇きのままにチサは歩き出す。手首を覆う柔らかい感触が曖昧になる。夢じゃないかと疑う私はチサに黙らされ、さっき疑いを囁いた誰かが哄笑する。
少女たちは背を向けて走り出す。
誰かは腕を持ち上げた。夜が靄となって日焼けした肌を覆っていた。靄は手のひらのまわりで濃さを増すとぐーっと引き伸ばされて棒状に広がり誰かの手はそれを掴むとやにわに振り下ろした。硬い衝撃と手応えがあった。
「みっちゃん!」
少女は悲鳴を上げた。足がもつれて少女は倒れる。誰かはみっちゃんに近づくと仰向けに晒した首筋に顔を近づけ唇を開けると齧りついた。肉を鎖骨から削ぎ取って鼓動に伴って規則的に流血する傷口に唇を寄せて今度は接吻する。接吻しながら舐めて齧って咀嚼を続けて真っ赤な血が靄に包まれ夜の闇におぼれしぬまで誰かはみっちゃんを貪り続けた。渇きのままに。甘露であった。
「みっちゃん、みっちゃん、立ってよ、立って、はしらなきゃ」
息せき切るように少女はいっそう影の濃い建物の合間の地面に項垂れて涙を流す。ひとしきりみっちゃんを味わった誰かは未だ満たされぬ渇きのままに少女に目を向ける。次はわたしの番だと気づいて少女は走り出す。だが方向が悪い。夜の奥へ迷路のような街街の間隙へ芳香を振りまきながら足を上げる。誰かにとって少女の速度は鈍重で先刻チサが受けた黄色い閃光に比べれば止まって見えた。
手のなかの棒状をした靄を再整形しながらぐっと身体を沈めて地面を蹴ると誰かはあっという間に迷路に消えた少女の背中を見つけ出す。迷路を切り裂く月明かりがスポットライトのように当たる背中は華奢で細くそれでいて肉がほどよくついていた。誰かの口に涎が湧く。少女は走りつづけていたが間近で聞こえた品のない水音に振り向いてしまった。
虹彩には動く影が映っていた。恐怖が掻き立てられて少女はくぐもった悲鳴を上げた。全身がついでに強張って、足がもつれてしまいには前のめりに転んだ。頭を打って視界が揺れる。少女はそれでも止まらない。逃げ出さなければという気持ちが彼女を動かしている。そうチサには見える。逃げて、と全力で叫ぶも誰かに遮られて声は届かない。少女は地面を芋虫のように這いながら、しびれる手足をばたばたと屠殺前の鶏のようにはばたかせるも、飛べる場所があるわけではなく、もがくばかり、力尽きるほうが先かと思ったとき、その腕に短く太い矢のようなものが突き刺さってアスファルトに骨ごと縫い止めた。
少女は悲鳴を上げる。右腕が動かない。もがいても引っ張っても痛いだけだろう。少女は痛みに喘いだ。誰かは笑った。毒気のない曇りのない笑いだった。笑い声を聞いて少女は顔をそちらに向けた。アリスにそっくりだと誰かは思った。襟首がはだけて首筋が見えた。その、浮き出た骨の描く曲線と、喉から胸にかけて降りる輪郭の交わりはまさしくアリスの首筋だった。林檎が腐ったような甘酸っぱいつんとした香りにいっそう誰かの涎はあふれて、少女の悲鳴を塞ぐようにその肉と骨に口づける。
食べている口が肉を裂き血を啜りえぐみまじりの甘さを堪能すると胃袋は間近に迫った出番に張り切って、全身が生理的な喜びを発した。少女が夜におぼれしぬころには、もう採れる蜜液は採り尽くしており、誰かは満足した様子で顔を上げると、仰向けに空を見上げる少女の瞳がかすかに動いた。
そこにチサが映っている。
口元を血で汚しながら満面の笑みを浮かべている。手に入れるべきものではないものを得たというのに、ひとまずの渇きを癒すことができて満足らしい。確かに、いまは渇いていなかった。
瞳にうつるチサが手を伸ばす。指先が角膜を突き破る。そのとたん、視界が石を投げ入れられた水面のように波打つ。
そこで目が覚めた。
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