コギト
犬井作
発見
1
それは長引くラリーの最中に起きた。相手のクロスを打ち返そうとしたとき、足からふっと力が抜けた。地面の感触が消えて、水に触れたような冷たさを感じた。転ばないように手をつこうとして、私は、私から私が離れていくのを感じていた。
世界は速度を失って、急激に減速していった。みんなが流れる雲のようにゆっくりと動きはじめた。
思考を置き去りにするように体が勝手に動いていた。右手はコートに手をついて、踏みとどまりながら前へと進んだ。それからあらかじめ知っているかのように、私の体は黄色いボールを追いかけてラケットを振るう。手応えを感じた次の瞬間には、コート中央へと走り戻って、相手の次の一手を待っている。一秒か二秒に満たないあいだに、私の体は独立し、私は静寂のなかに本当に置き去りにされていた。
静かだった。
勝てる、と思った。これなら絶対に相手は私に追いつけないから。けれど怖いと思った。私自身も追いつけなかったから。
体は冷静そのものだったが、私はひどく混乱していた。打っている感触が、打ったと思うよりあとにやってくるのだ。それなのに、感覚が思考に先んじてることも、それなのにそれを当然だと考えている感情が沸き起こっていることも、そうした事を考えながら体はどんどん先へ先へと進んでいることも、わかっていながら読書でもしているように落ち着いて考えこんでいる私がいるのだ。
いまは大会だ。集中しなきゃ。そう思っても、むしろ体に任せているほうがいいんじゃないか、とも思えて。
突き抜けるような青い空にひとつも雲がないことや、あと二ゲーム取得すれば勝てることや、観客がみな、ボールに目を奪われているせいで首を左右にふりながら声を漏らすおもちゃに思えてくることや、あれやこれやがみな意識のうえに等しく上ってきたところで、違和感に気づく。
私の体が私が意識するより早く動いているのだとしたら、どうして私は、こんなにいろんな情報を捉えることができるんだ?
そう思ったとき、私の目の前を見覚えのあるユニフォームが横切った。私の学校の、ユニフォーム。背中には地平チサと、私の名前が書かれている。
女は、ゆっくりこちらに振り返った。
私に任せてよ
ぜんぶうまくいくからさ
その女は私そっくりだった。いや、むしろ、私そのものだった。まるで私のほうが偽物なんじゃないかと、一瞬そう思ったくらいだった。けれどその女が、嬉しそうに微笑んだとき、先程から抱いていた違和感と怖れが寒気となって全身を動かした。私はその女に飛びかかると、両腕でその首を掴んで押し倒した。
殺意はなかった。ただ怖かった。このままだと私が奪われると直感的に理解していた。力をこめる。細いのどを押しつぶす。こいつを生かしてはいけないと、本能からわたしは怯えた。
過呼吸気味になり、息苦しくなった。視界が暗くなっていった。
苦しいのは私じゃないはずなのに。
瞬きをした。女が消えた。太陽はひどく眩しくて、テニスコートに呼び水が見えた。消えていく水のなかに、息苦しそうにむせる私が見えた。私も、頭はひどく重たくて、指先ひとつ動かなかった。
ブザーが響くのが聞こえた。
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