5話① 危ない橋

「やめよ!」


大きな声で静止して庭に入ってきたのは嚴興だった。目の前の殺伐とした光景に目を見開き、すぐに郭夫人を睨みつけた。


「お前に話があるからと来てみれば、何をしている⁉︎また些細なことで処罰していたのか⁉︎何人潰せば気が済むのだ!」


嚴興の怒鳴り声に郭夫人は怯んだ。屋敷の使用人達は全員嚴興名義の財産とみなされている。どんなに腹立たしかろうが、奥方といえどそれを勝手に死なせたり必要以上に傷つけたりすることは本来許されることではないのだ。


「…あの子供が馬檀の靴を汚したのです。それをあの老夫が身代わりになると申し出たのでそれを聞き入れたまでにございます。」


あくまで自分の主張を通そうとする郭夫人に、更に嚴興が吠える。


「靴などどうでも良いわ!あの者は我が屋敷の厩番なのだ!あの者が働けなくなれば馬の世話は誰がする⁉︎お前がするとでも言うのか!」


「くっ…!」


郭夫人は気圧されて何も言えない。次に郭夫人の傍に立つ馬檀にも怒鳴る。


「馬檀!どうせお前が母に泣きついたのであろう!騎一族の男がそのような恥ずかしい事をするな!」


「は、はい…。」


父親に容赦なく叱られて馬檀は鼻水まで出しながらしゃくりあげている。


「執事、お前は袁の足の治療の手配をせよ。

皆、この場から直ちに解散せよ!各自持ち場に戻れ!」


その場にいた者達を解散させたことで、惨劇の幕は降りた。柊と貝が外した戸板を持ってきて袁をゆっくり乗せ、使用人の大部屋に速やかに運んでいく。素鼠も足の縄を外されて自由になり、そのまま袁に付き添う。しれっと自室に戻ろうとする郭夫人は嚴興に止められた。


「待て、そもそも話があって来たのだ。夕食までまだ時間がある。私の部屋に来なさい。馬檀は自分の部屋にいるように。」


そう言って嚴興と郭夫人は、夫人の部屋に消え、馬檀も大人しく部屋へ戻っていった。


日はじきに沈みきって夜になろうとしていた。





部屋に入った嚴興と郭夫人はしばらく黙ったまま文机を挟み向き合って座っていた。そして郭夫人がようやく口を開いた。


「…先程はお騒がせいたしまして、申し訳ありませんでした。以後心を抑えるように致します。」


むくれた口調でひとまず謝罪の言葉を述べる郭夫人に嚴興は溜息をついた。


「はぁ…。もうあのような苛烈な処罰はするな。何かあればまず私に報告しろ。…お前が来てから何人使用人を入れたか…。」


郭夫人は後妻であり、7年前に騎家に嫁いで来た。嫁いだ当初は大人しかった。しかし馬檀を産んでから本性を現し始めた。最初は馬檀の乳母にと雇っていた女に奴婢の捨て子と自分の息子が同じ乳で育つのが許せないと言い、馬檀の乳離れが済んだ後、表向きは嚴興に色目を使ったという理由で殺してしまったのだ。その後も、やれ食事が不味い、用意した衣が悪いなどと言って下の者達に制裁を加えていた。その度に大怪我を負わされる者が出てやむなく代わりの使用人を買ったり、新しい侍女を雇ったりしてきたのだ。


「今から儂が話すのは馬檀の将来についてだ。よってこれからはいっそう過激な言動は慎むように、いいな。」


「かしこまりました。それで、馬檀の将来とは一体?」


「うむ、先程皇宮より来客があった。馬檀を義友ぎゆうとしてすぐに迎えたいとこのとだ。」


義友とは、皇子と共に学問に励み武芸を磨きながら仕える者のことで、成人しても腹心の臣下として一生仕える。皇子には10歳頃から義友をつけられる事が多く、よって義友となるのも同じ年頃の男子だった。しかし、関係の親密さから政治に大きく影響を及ぼすため、選ばれるのは武将や学者の子が多かった。


「まぁ!太子様の義友にとお声がかかるなんて!確かにそろそろ義友をおつけになられる御歳ですわ。しかし、うちの馬檀では幼すぎるのでは?」


「…太子様の義友ではない。瀚皇子様の義友だ。」


「瀚皇子様?し、しかし瀚皇子様は…」


「ああ、馬檀と同じ6歳であられる。これが何を意味するかわかるか?」


本来なら10歳から付けられるはずの義友を6歳の時点でつけるということ、更にそこに勢いのある大右官長の息子をつけるということは、瀚皇子を太子の対抗馬に押し後ろ盾となれということだった。だが郭夫人は色めき立った。


「あなた、せっかくのお話ですわ。瀚皇子様といえど同じ皇子様です。馬檀が義友になればあなたも勢力をさらに拡大できるのでは?」



「お前はわかっていない…。義友は一生傍でお仕えするのだ。つまりは儂も一生瀚皇子様の後ろ盾とならねばならない。政局に対応して皇子様を見捨てれば、それは馬檀も見捨てることになるのだぞ!」


義友になれば、皇子に対する賞罰も同じように受ける。皇子が亡くなれば義友も死んだ時皇子の墓に埋葬される。それほどまで義友の関係は強いものとされている。名誉な話の裏には、大きな危険と息子を人質に取られることが潜んでいた。だが郭夫人の言う通り、今まで以上に政界での勢力を強めたいのは事実だった。


「太子様が皇后様のお子様でなければ、もしくは冬妃様のがご身分が高ければこんなに悩まない…。」


皇后の息子という太子としての正当性を崩すほどの要素を瀚皇子が持っているとは思えない。たいそう優秀と聞くが政治においては単なる優秀さよりも、数多の臣下と渡り合う力のほうが重要だ。しかも皇子は瀚皇子の他にもいる。それなのに瀚皇子を推す意味があるのだろうか。


「話は以上だ。このことは馬檀には言うな。

決断するにはまだ時間がかかるゆえ、その時に改めてお前にも話をする。」


そろそろ夕食だろう、といって嚴興は部屋を後にした。



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