1話③ あの女

 部屋の空気が熱気でこもっていた。肩で息をする嚴興は布団から汗まみれの体を起こす。寝台に腰掛け、膝に力を込めて立ち上がると、傍らにある椅子に雪崩れ込むようにして座りこむ。ふーっと大きく息を吐いて、ぐったり横たわる翠鳥を一瞥いちべつしてからニヤリと笑う。


「いや、良かったぞ。若い女というのはやはり良いものだな。お前もどうだった?」


「はい、ご満足頂けまして光栄にございます。これにて私は…」


のそりと上半身だけを起こして、力なく笑って答えると突然手を口に当てて布団に突っ伏した。


「う!?…ごぼぉ!」


勢いよく吐血し、塞ぐ手からもボタボタと零れ落ちて、すぐに布団を真っ赤に染める。それを見て嚴興が椅子から飛び上がる。


「どうした⁉︎おい、誰かおらぬか!紅雀!」


叫んでから、部屋を飛び出そうとするも足がもつれ転倒する。体を強かに打ち痛みで目を瞑る。呻きながら目を開けると、視界に女の白い裸足が映る。翠鳥が口や鼻からも血を流し、白目を剥き嚴興を見下ろしていた。


「おい、なんだ!こっちに来るな!お前病気でも持っていたのか⁉︎」


「こ…よ…、今宵の事を…忘れるな…。再びお前の元に訪れる…」


男とも女ともつかない声で翠鳥が呟いて、その場に倒れこんだ。嚴興は恐怖で動けずに床に伏したままになってしまった。ドタドタと足音が聞こえ、紅雀が飛び込んでくる。


「旦那様⁉︎大丈夫ですか⁉︎…きゃあああ!」


部屋の惨状を目の当たりにして悲鳴をあげる。続けて入ってきた妓楼の廻しの者達も、うわっと声を上げる。


「お前どこに行っておった!この女血を吐いたぞ!早く助けおこせ!」


紅雀に支えられながら、フラフラと嚴興が立ち上がる。廻しの者達は翠鳥の体を確かめて首を横に振る。1人が血に染まった布団や寝台の布を引っ張ってきて、それを使って翠鳥の体を包む。そしてそそくさと運び出して行った。


「あれは死んだのか?」


嚴興が問うと、廻しの者が平伏して答える。


「いえ、まだ微かに息がありますが、これだけの吐血をしたことにはまず助かりませんでしょう。何より騎様にこのような粗相を致しましたこと、あの者の命に代えましてお詫び申し上げます。何卒お許し頂けませぬでしょうか。」


嚴興は憤慨しかかったが、そもそもは妓楼の規則を破り見習いに手を出したことが原因だ。それにこの妓楼は遊郭一の老舗だけあってこれからも様々な局面で利用していくことになる。大右官長の怒りを買ったとなれば老舗といえども評判に関わるだろう。そのせいで経営が傾いて、今後この妓楼の利用に支障が出ると困るのは嚴興だ。


「わかった、咎め立てはせぬ。だがあの女は確実に始末しろ。」


「騎様、感謝致します。必ずお約束致します。それではお怪我の確認を兼ねてお体を清めさせていただきますゆえ、どうか湯浴みにお越しくださいませ。」


紅雀にひとまず衣服を着付けてもらい、不機嫌そうに部屋を出る。


「紅雀すまなかったな。」


嚴興がぼそっと呟く。紅雀は静かに答えた。


「…旦那様、ちょうど布団の綿が潰れておりましたの。新しい布団でまた旦那様としとねを共にしとうございますわ。今度は金糸の刺繍が入った布団がようございます。」








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