1話④ あの女
湯浴みを終えた嚴興は最上階の最高級の部屋に通された。今回の翠鳥の件で、直々に謝罪したいとの楼主からの計らいであった。表向きは6階建ての霍楼だが、密かに通路や階段がありこの最上階に登ることができる。ここの階を使うことができる者は楼主や一部の上級妓女、そして限られた貴族や商人だけだった。
最上階からの夜景を眺めていると、障子の開く音がして楼主の
「この度は、うちの見習いが大変な粗相をしでかしまして、お詫びのしようもございません。騎様におかれましては、日頃格別の御愛顧を賜りまして恐悦至極に存じます。あの者の処遇はこちらでお任せ頂きまして、騎様にはどうか広い御心でお許し頂きとうございます。」
「先程廻しの者に、翠鳥は必ず処分するようにと伝えた。それで変わりないか?」
「感謝申し上げます。もう助からない容態なので、このまま棄ておきます。」
「うむ。ところで、あの者の吐血は病か?儂には何の害も無いのか?」
「翠鳥はなんの病も患ってはおりませんでした。ご安心くださいませ。この際申し上げますと、実はあの者はかつて一度水揚げをしくじっておりまして、それからどなたも水揚げに名乗りを挙げていらっしゃいません。」
水揚げとは、見習いから正式に妓女になるための通過儀礼であり初めて男性経験を持つ事である。しかし、売られてくる娘が本当に乙女かどうか証明しづらく、水揚げという手順を面倒に思う客が多いため、霍楼含め一部の高級妓楼でしか行っていない。逆にいえば水揚げの対象となっている者は乙女であることが保証されているのである。特に特権階級の男達には水揚げするということはステータスを顕す一つの手段であった。
水揚げを失敗しているということは、少なくともその手の病は患ってはいないだろう。
「何か粗相でもしたのか?」
「お相手のお客様が心臓の発作で亡くなられたのです。元々心臓の持病がおありの方でしたのでこちらはお咎めを受けませんでした。しかし不吉だということと、そのお客様の
「その客は何を言ったのだ?」
「部屋に幽霊がいた、と。」
嚴興はどきりする。
「それはどんな幽霊だったのだ?」
「それが丁度事切れてわかりませんでした。さらにその方は、他の客のいる前で叫ばれたので世間の知るところとなり噂となってしまいました。その後翠鳥が自ら噂を消して回っておりました。あまりに華奢で貧相な体が幽霊のようで驚いたのだろう、と。おかげで噂されるのは短い期間で済みました。」
「そうか。それはいつ頃の話だ?」
「2年前の正月でしょうか。翠鳥が15歳になる年のことでしたから。」
碧では、人の年齢は数え年であり男女共に15歳で成人となる。その頃といえば、嚴興も長男の成人の儀に合わせて先祖の墓へ参拝しに都を半月ほど離れていた。どうりで知らないはずである。
「騎様にお尋ね致しますが、何か怪しい気配などは感じられませんでしたか?」
言われて、嚴興は黙り込む。果たして言ったところで信じてもらえるのだろうか。しかし、このようなことを尋ねるということは何か事情を知っているのかもしれない。
「あの女、儂のところへまた来ると言っておった。今宵のことを忘れるな、とも。」
楼主の顔が険しくなる。
「左様でございますか。では、その事はどうかご内密に願います。」
「おい、何か知っているのか⁉︎知っているなら話せ!」
「…噂が立ってこの妓楼に影響が出ることを恐れてこのように申し上げているのではありません。正直なところ、騎様も今回の事が尋常でない事はお察しでございましょう。過去の事件といい今回の事といい、まことに人ならざる者が関わっているのやもしれませぬ。尊き
何卒ご内密に願います!」
そう言って額を床に擦り付ける。
これは聞き出すのは良くなさそうだ。
「わかった。このようなこと誰も信じぬだろうし気味悪がられるだけだからな。だが儂や儂の一族に災いが降りかかるようなことにはしたくない。」
「ごもっともにございます。ならば我が
そう言って楼主は懐から朱色で文字の書かれた黄色い札を取り出した。
「そなたら端一族というのは、呪い師でもしておるのか?」
受け取って札をぴらぴらさせて眺めながら嚴興が問う。
「いいえ、特にそのようなことは。
「そうか。では指示通りにしよう。して今回の事は他の客にも伝わっているのではないか?収拾はそなたに任せるがよいか?」
「はい。お任せくださいませ。」
こうして翠鳥の一件は、紅雀の部屋に嫌がらせで猫の惨殺死体が入れられており、たまたま嚴興と翠鳥が見つけ、驚いた翠鳥の具合が悪くなった、ということになった。
翠鳥はその後息を引き取るのを待たずして、遊郭の外れにある妓女たちの墓地に深く埋められた。
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