1話① あの女

 栄始35年「碧」の首都、西革。

 夜の都では、皇宮「霍天宮」が警備の松明を灯し黒い静寂に包まれているのに対し、東の郊外では運河沿いに妓楼がひしめくように建ち並び昼間のような明るさで賑わっていた。運河に浮かぶ屋形船には男女の甘い笑い声と弦の音が溢れ、水を掻く音に混じる。朱や桃色の提灯が丸く光を形作り、それが幾重にも重なって辺りを曖昧にする。


 この東丹遊郭で500年の歴史を誇る老舗妓楼「霍楼」では、特に華やいだ座敷の中に豪奢に着飾り肥え太った男の下卑た笑い声が響いていた。


鶴羽かくうよ、まだまだお前の舞を堪能しておらんぞ。もっと舞え。」


両脇に美女を侍らせ酒を飲むのは、この都で知らぬ者はない、大右官長の騎嚴興きげんこうであった。


「旦那様、舞がご覧になりたいなら私が舞いましょう。あのように無様にふらついているだけなら私にもできますわ。」


そう言って酌をしながら鶴羽を嘲るのは、嚴興の贔屓の女である紅雀こうじゃくである。その名の通り紅色が好きなのか、真紅の絹の裳に黒地に銀糸で刺繍した上着の儒裙を纏っている。大きく結い上げた髪には真珠や翡翠の簪、歩揺ほようをたくさん挿してなんとも華やかだ。目尻に紅を差し、気の強い性格を物語っていた。


「この鶴羽は今宵初めて一人前として座敷にあがったのだから、まずは妓女の基本である舞から見てやらねばな。」


「まぁまた悪い癖が出ましたね。そうやって旦那様が新米虐めにご執心になるのはよろしいですが、私はこうしてお酌するだけで退屈ですわ。」


 「私でしたら…」そう言って紅雀は自分の裳の裾を上げて嚴興の顔元に唇を近づける。嚴興はふわりと甘い香りに包まれる。


「あのようにふらつくだけならば、いっそ衣を脱ぎますわ。その方がまだ見応えがありますでしょう?」


「ははは、ではその見応えある舞をお前の部屋で見せてもらうとしよう。」


そう言って上機嫌で立ち上がった嚴興は紅雀の手を取り回廊に出る。回廊には呼び出された妓女や楽士、妓楼の廻しの者が忙しなく動く。紅雀に案内され揚々と部屋に向かう途中、前から3人少女が歩いてくる。まだあどけなさの残る少女達はチラチラと嚴興を見て、そうと分かると前の2人は過ぎざまに笑顔を向け一礼したが、3人目は目を伏せたまま一礼をし、そそくさと前2人について行くように去っていく。


「おい、あの女達も新米妓女か?」


嚴興は紅雀に尋ねるも、少女達は回廊の突き当たりを曲がろうとしていて、顔がよく見えない。


「いいえ、まだ水揚げ前の見習いですの。一番後ろの者でしたらあれは翠鳥すいちょうです。翠鳥たちが如何なさいましたか?」


「いやその翠鳥とやら、なんとも愛想の無い女だ。この儂が通ると言うのに目を伏せて一礼だけして、にこりともせん。あの女どんな太々しい顔かはっきり見えなかったのが悔しい。」


「まぁ旦那様、そう言って翠鳥に浮気なさっては嫌ですわ。」


「何、顔を見てやるだけだ。見習いならばまだ付いている贔屓の客もいないだろう。おぉ、これ廻しの者。翠鳥という見習いを紅雀の部屋に呼べ。」


「恐れながら旦那様、翠鳥は水揚げ前でして、お手をつけられては…」


「そんなことはせん!顔を見るだけだ!」


「かしこまりました。ではすぐに連れて参ります。」


廻しの者はささっと回廊を小走りに走っていく。


「旦那様、私の部屋で会うのでしたら私もいて構いませんよね?」


「ああ、いや、お前は少し外で待っていてくれ。」


「旦那様!本当に浮気なさるおつもりですか⁉︎」


声を荒らげる紅雀を宥める嚴興ではあったが、自分に気づきながらも関心を示さなかった者がどうしてこんなに気になるのか、自分でもよくわからないでいた。



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