第3話 1-3

「先輩! 頑張って、あと、一周だよ!」

 私はストップウォッチを持って、先輩が戻って来るのを待った。


「ひゃ~、疲れた。どうだった?」

「すごい! 五秒も縮みましたよ」

 マネージャーである私は先輩一人だけの練習につき合わされていた。


 先輩は私に渡されたタオルで汗を拭きながら言った。

「たった、五秒かよ」

「なに、言ってるんですか! 陸上の五秒は、普通の五秒とは訳が違うんですよ」

「でも、俺って長距離だぜ」

「いいの、いいの」

 私は景気づけに先輩の背中をバシッと叩いた。


「いってぇ! なに、すんだよ。お前、バカ力だな」

 私と先輩は誰もいない高校のグラウンドを出た。

 外はもう真っ暗で、道の街灯がともり始めている。


「わりぃ、こんな遅くまでつき合わせちまってさ」

「いいんですよ。それより、秋の駅伝、頑張ってくださいね」

「お、おう!」

 先輩はスポーツバックの中に手を入れて、何やらガサゴソとしている。


「なあ、真帆。あ、明日さ、これ、一緒に行かないか?」

 先輩が差し出したのは海峡で行なわれる港祭りのチケットだった。

「え、港祭り?」

「うん、花火大会があるんだ」

 先輩は顔を赤くして、私と目を合わせずに答えを待っている。


「先輩!」

「え、なに?」

「なに、じゃないですよ! こういうことは相手の目を見て言ってください!」

 私が頬を膨らませていると、いきなり先輩が私の両肩を掴んだ。

 急だったので、私まで顔が赤くなるのを感じた。


「真帆、明日、俺と花火大会に来てくれ!」

「は、はい、喜んで……」


 次の日、私は珍しく朝早くに起きた。

 お昼に家の近くにあるソバ屋で軽く昼食を済ませて、友達の家に行った。

 そこで友達のお母さんにおろしたての浴衣を着付けてもらった。

 友達が「これ、貸してあげる」ってルージュとグロスを差し出した。

 私が「口紅なんて似合わないよ」と言ったら、「なに、言ってんの。今どき、小学生だってするって。大丈夫、私が塗ってあげるから…」と説得された。


 普段、リップクリームも塗らない私の唇に、薄いピンク色のルージュが塗られていく。

 友達が塗っている最中、「先輩、真帆のピンクの唇見てキスするかもよ」と私をからかった。

 私はその場では怒ったふりをしたけど、心の中では本当にそうなるかもしれないとドキドキした。


「はい、出来たよ」

 友達がニヤニヤ笑いながら、鏡を持ってきてくれた。

「ねっ、かわいいでしょ」

 私はピンクの唇を見て、なんだか嬉しくなってきた。



 八歳になった誕生日の日、死んだお母さんが「可愛くなるおまじない」と言って、私にルージュを塗ってくれた。

 私はそれを思い出しながら、鏡に映った自分の唇にうっとりした。


「あんた、ナルシスト? 自分ばっか見てないで、さっさと先輩、落としてきなよ」

 友達はそう言って、私の背中を強く叩いた。

 私は友達の家を出たあと、コンビニでインスタントカメラを買ってから、海峡へと向かった。

 もう空は夕日で赤くなっていた。私は海峡に近くなってくるにつれて、胸がドキドキしてくるのを感じた。


 海峡に着いて、しばらく先輩を待ったが、なかなか先輩は現れない。

 先輩が遅いので、私はぶすくれて、屋台でかき氷を買った。


「なによ、自分から誘っておいて!」

 私はやけくそになって、冷たいかき氷を一気に食べた。

 無理して食べたので頭がすごく痛い。

「いててて……」

 私はおでこを手で押さえながら、空を見上げた。


「あれ……」

 さっきまで、夕日で赤くなっていた空が、真っ黒な雲で覆われている。

「雨、降るのかな……」

 ふと、海峡の方に目をやると、そこには大きな真っ黒な巨人が、こっちを睨んで立っていた。

 そして、巨人が地鳴りのするような咆哮をあげると、海峡全体が金色の光りに包まれて、辺りにいた人たちはみんな、叫ぶ暇もなく消えていった。


 私も消えてしまうのかな……。

 そう思った瞬間、私は白い大きな翼にすっぽりと全身を覆われていた。

 いや、守られていたと言うのが正しいのかもしれない。

 

 気づいた時、私はそこだけ抉り取られたような荒地に立っていた。

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