とある世界のありふれた青春

葛城2号

それもまた一つの青春

プロローグ




 父が居て、母が居て、ありきたりというには恵まれた両親の下に生まれた時田剛ときた・ごうが、この世界のとある分娩室にて産声を上げた、その年の――その日。


 世界は、世界が、自分たちが暮らす以外にも、異なる世界が有って、世界が一つではないという事を思い知った日でもあった。


 それは、そう複雑な話ではない。


 後に、デーモン・ゲート(地獄への門)だとかヘブンズ・ウインドウ(天界を覗ける窓)だとかフェアリー・サークル(妖精の出入り口)だとか、小中学生の心を掴みそうな、様々な渾名が付けられることになる、異世界とこの世界を繋ぐ『扉』が発見された日である。


 しかし、この『扉』は人々が探し求めて見付けたモノでもなければ、偶発的に発見されたモノでもない。


 この『扉』は、突然この世界に姿を見せたのだ。


 何の前触れもなく、その日になって突然、音も気配も色も変化させず、いきなりその場所に出現した。


 おかげで、『扉』が現れた時は色々と……まあ、そこはいい。


 この『扉』が出現した時の話で重要なのは、三つ。



 一つは、この『扉』の向こう……つまり、異世界から現れたのが……人類とほとんど同じ姿形をした者たちであったということ。



 そう、ほとんどが、だ。


 全てが全て同じというわけではないというわけだが、その違いも、背の高さであったり顔立ちであったり……いわゆる、個人差という範囲で収まる程度の違いしかなかった。



 二つ目は、その異世界の科学力が、この世界よりも格段に優れていたということ。



 有り体にいえば、こっちは月に行くまででヒーヒー言っているのに、向こうは宇宙資源を自在に活用出来るぐらいに科学が進んでいたのだ。



 そして、三つ目は……異世界の存在が確認されてすぐに、その異世界と……戦争状態に陥ったということであった。



 キッカケは……今になっても不明なままである。



 ある者は向こう側が先に手を出したと口にし、向こう側はそちらが先に手を出したと口にする。


 証拠も何もない原因を止める術など誰にもなく、賢明な者たちが気付いた時にはもう、全てが遅かった。


 しかし、キッカケは何であれ、だ。


 確かに互いの世界が互いの世界へと銃口を向け、互いが持っている武力を放ち、互いが持っているモノを奪い取ろうとしたのは……確かな事実である。



 故に、二つの世界は争った。


 結果、勝利を掴み取ったのは……異世界側であった。



 決着は思いの外早かったが、客観的に考えれば、それは当然の結果でしかなかった。



 何せ、科学力……というか、戦力が違い過ぎた。



 純粋な物量もそうだが、この戦いで使用された兵士たちの武装一つとっても、そう。


 雲泥の差という言葉が生易しいぐらいで、完全装備の兵士ですら、異世界側からすれば『おままごと』でしかなかったのだ。


 兵士一人で基地が幾つも壊滅させられ、戦術核すらも無効化されて敗戦を早期に受け入れた国は、まだ良かった。少なくとも、それ以上の攻撃はされなかったから。



 ……おそらく、それは見せしめを兼ねたお仕置きだったのだろう。



 その対象に選ばれた国は、表向きは反抗的ではなかった。


 しかし、それはあくまで表面上の話でしかなくて、実体は国そのものを隠れ蓑にしたゲリラ作戦であった……というのが、異世界側の言い分であった。


 ――それを知る術は、もう無い。


 何故なら、その国は激怒した異世界側の制圧作戦によって、加担した者たちを老若男女の区別なく全てを処刑し、その死体を広場に並べたからだ。


 最初から徹底した抗戦を表明した国に至っては、もっと酷い。


 はっきり言えば、根絶やしであった。


 政府や軍関係者を含めて、積極的に加担した国民の9割が一夜にして死体となり、残りの1割は公開処刑となって……情勢は一気に敗戦ムードに傾いて。


 ……最終的に、とある国が玉砕覚悟で行った軍事作戦がものの見事に失敗し、それどころか、その作戦を理由に攻め込まれ……遂には、地図上からも歴史からも、完全にその国が瓦礫の下に埋もれた……後。



 時間にして、それらは3ヵ月の出来事であった。



 戦争が開始され、この世界が条件を受け入れる形で停戦し、敗戦を受け入れて戦争が終結するまで……たった3ヵ月。


 その翌日、とある冬の日、国連は全世界に対し……世界が敗北した事を告げた。


 それが、後に『異世界大戦』と呼ばれるようになる、人類史上初の、人類が初めて敗北した事を表明した宣言であり……と、同時に、人類が異世界側の属国になることが定まった日でもあった。


 人々は、恐怖した。歴史が、証明しているからだ。


 戦争で敗北した国が、その国に住まう人々が、どのような末路を辿るのかということを。



 ――何十年も掛けて支払い続ける賠償金か。


 ――それとも、地球上に存在する資源か。


 ――あるいは、幾らでも使い道がある奴隷か。



 実際に抵抗した国が、文字通り相手の手によって慈悲なく壊滅したのを知っているからこそ、余計に。圧倒的なまでの戦力の差に、大国すらも固唾を飲んで裁きを待つほか無かった



 ……。


 ……。


 …………だが、しかし。



 戦々恐々の最中、異世界側が示した施行した様々な法律。そのどれもが言葉だけを見れば非常に危険な代物ではあったが……不思議な事に、問題らしい問題は起きなかったのだ。


 もっと正確に言うなれば、一般市民の間では問題ないレベルの……むしろ、称賛を向けてしまうような事しか起こらず、庶民の間では特に怖れられるような話ではなかったのだ。


 例えばその一つ……新たに世界に施行された、現行のやり方を維持したままでの異世界側の絶対的な統治権。


 これは単純明快で、『基本的には今まで通りの法律に従って動いてもらって構わないが、それはこちら側が許可を出しているだけで、何時でも何処でも誰にでもこちら側の都合で、こちら側の法律に従ってもらう』というものだ。


 つまり、異世界側に『私たちが黒といったら白でも黒、黒と訴えるだけでも違法』という滅茶苦茶が通るということ。


 言葉だけを読めば、非常に危険な代物なのだが……何故か、異世界側は思ったよりもその権利を行使しなかったのだ。



 ……もちろん、全くではない。



 しかし、その権限が発動したのは何時も、活動家を始めとした反抗勢力であったり、その動きを高めようとするお仲間であったり……まあ、そういうやつらばかりであった。


 故に、見せしめ代わりに統治権が適用され、何百名という活動家などが投獄されて即日処刑となったが……いわゆる、一般市民に対してはほとんど適用される事はなく、大人しくしている分には何もされなかったのだ。



 いや、それどころか……現実は、逆だ。



 どうやってかは定かではないが、法の隙間を突いて大規模な節税(あるいは、脱税)を行っていた企業や人物、社会的上層部と結託して暴利を貪っていた者たちを捕らえ、溜め込んでいた財産を没収し、それを市場に回し始めたのだ。


 当然、悪事に手を染めていた企業や、結託していた一部の高官たちは抵抗しようとした……が、結局は何も出来ないまま、その家族ごと順次処刑され……気付けば、誰も何も言えなくなって。


 その結果、一般市民たちにもたらされたのは……ドーピングなんて言葉では収まらない、爆発的な景気の活性化。二つ目の人類史上初となる、全世界レベルでの好景気の到来であった。



 ……一般市民にとって、実の所、誰が統治しようが大した問題ではないし、そもそも興味も薄い。



 重要なのは、自分たちに害が無く、むしろ、実利しかもたらさない存在が上に立つということ。


 異世界側を憎む者たちもそれなりにいたが、特に被害らしい被害を受けなかった者たちにとっては、前の政府よりもよっぽど喜ばしい存在でしかなかった。




 ――それは、日本という国で産声を上げてから5年の月日が流れ、来年は小学校への入学を控えた時田剛にとっても同じであった。




 幼い剛には、政治が分からない。お金の価値というのもおぼろげにしか分かっていないし、世界情勢なんていうのも彼方の話でしかなくて、理解の範疇の外である。


 しかし、彼自身には分からなくとも、彼を育てる両親に笑顔が増えている。それだけでも、剛にとってはよほど重要な事で、大事な事である。


 そう、実害らしい実害を受けていない、幼い剛にとって、『異世界からの侵略者』なんてのは、遠いテレビの向こうの出来事でしかなかった。


 そんな事よりも、幼稚園に行って友達と遊ぶ方が大切で。


 文字通り、赤ちゃんの頃からの付き合い(両親曰く)である幼馴染の彼女と走り回る方が楽しくて。


 気弱で苛められる事の多かった彼女を守る事に精一杯で、異世界の事なんて気にする暇などなかったのである。


 故に、剛は時折テレビやインターネットに流れる『異世界』の話を見聞きして話題にすることはあっても、大した興味を抱くことはなかった。



 それは、剛だけの話ではない。



 剛の回り……幼馴染を含めて、誰もが特に気にした様子も無く、対岸の向こうの出来事としか捉えていなかったし、直接的に関わりのない人たちも、同じ気持ちであった。


 ……いちおう、書籍や映像資料等は公開され、幾つかは販売して市場にも出回っていた。


 だが、その立ち位置はあくまで『マニア向け』であり、主要の購買層からは外れ、40万部ほどが売れた辺りで……ほとんど話題に上がらなくなった。


 未だ各国の混乱が続いていることもあってか、肝心の異世界人たちが民衆の前に姿を見せないからだ。


 なので、いくら書籍や映像が有ったとしても、実物が目の前に来ない以上は……実感を持てという方が無理な話であった。


 ……そうして、ごく一部の者たちが必死になって『異世界』と交流を深めている内に、更に月日は流れ……その他大勢の人達と何ら変わらずに中学生となった剛は、無事に思春期を迎えていた。




 まあ、特に何かが変わったわけではない。全ては繋がっていて、地続きである。




 背丈が伸びて、身体も大きく、第二次成長期へと入った剛は、他の男子たちと同じく……徐々に、異性への強い興味を抱くようになっただけである。


 その過程で……剛は、生まれて初めて異性の恋人……つまり、彼氏彼女の肩書を手にした。



 相手は、気心知れた幼馴染の少女……名を、『木本優奈きもとゆうな』。



 幼い頃は苛められる事も多かったが、中学も終わりに近づく頃には多数の男子より『綺麗になった』と陰で言われるようになった……剛にとって心から大事に思う異性であった。



 そう、剛にとって、木本優奈という少女は誰よりも特別な女性であった。



 所詮は他人でしかないとは分かっていても、剛は優奈の事なら何でも知っていると思っていた。自分の事も、優奈は誰よりも知っていると思っていた。


 惚気と言われればそれまでだが、剛にとってはネットやテレビに登場する異性たちよりもずっと、美人だと思っていた。心から、こんなに美しい人はいないと思って、夢中であった。



 ――だから、その光景を目にした瞬間……剛は、己の目を真っ先に疑った。



 何せ、異性の相手では誰よりも互いに気心知れた間柄であり、相思相愛だと思っていた幼馴染の少女が……赤らめた頬を『見知らぬ男』の腕に擦りつけていたからだ。


 しかも、それだけではない。


 剛ですら……恋人であるはずの剛ですら、『まだ恥ずかしい』という理由で拒まれていた、その瑞々しい唇が……自分以外の男の唇を吸っているという、信じ難い光景だったからだ。



 ……時刻は、夜。予備校からの帰り道、予期せぬ用事のせいで、何時もとは異なる道から帰路に着いていた……そんな時であった。



 人通りはほとんどなく、男はラフな恰好。自販機の光に淡く照らされた少女の顔。事情を知らなければ、誰が見ても『年上の恋人』との逢瀬を楽しんでいるようにしか見えない。


 ――反射的に、剛は隠れた。たまたま目に留まった、マンションの陰へと身を隠し……震える手で、スマホをタップする。



 どうか、人違いであって欲しい。


 どうか、他人の空似であって欲しい。



 そう、心から願った。


 だって、己の知る恋人は、予備校に通っているはずだ。『受験に集中したいから、しばらく連絡は控えよう』と提案したのは向こうで、事前に聞いていた話だと、今日は予備校に行っているはずなのだ。


 だから、間違いだ。眼前のあの子は、よく似た別人だ。


 只の間違いでしかないと、心から……だが、現実は非情であった。心の整理はおろか、悲しみを覚える間も、与えてはくれなかった。



 ――時間にして、数秒後。信じたくはなかったが……恋人である少女が、スマホを取り出したのだ。



 そのうえ……ああ、剛は見てしまった。『恋人との逢瀬を邪魔され、不機嫌そうに顔をしかめた幼馴染の少女の顔』を。


 遠目にも、気分を害されたというのが見て取れる顔で……恋人であったはずの少女が、スマホを耳に宛がった。



 『――もしもし、剛? 何か用?』



 僅かに隠し切れていない、不機嫌の香り。『……急に御免、ちょっと声が聞きたくなって……』己の声が震えていない事が、剛は我ながら不思議に思った。



 『――悪いけど、今は授業中で電話に出られないの。特に用が無ければ切るけど、いい?』



 眼前の光景がなければ、剛は言葉通りに受け取っていただろう。


 だが、もう……剛は信じられない。何故なら、現実として……確かな現実が、そこにあるから。


 呆然としている内に通話は切られ、スマホをポケットに戻し……そうして、気を取り直すと言わんばかりにかつての恋人は、見知らぬ男の腕に抱き着いた。



 ――邪魔者であった。疑い様もなく、己は間違いなく……木本優奈にとって、邪魔者であると見せ付けられた。



 不思議と……浮気をしている恋人を問い質す気持ちにはなれなかった。


 本来であれば邪魔者は向こうに居る『見知らぬ男』なのに……剛は、己こそが邪魔者なのだと思ってしまった。



 ……悪夢のような現実は、続く。



 不意に、二人が動き出す。反射的に更に身を隠しながらも、こっそり二人の動向を覗く。


 傍目には恋人同士にしか見えない二人は、剛の存在など気づきもせず……自販機より少しばかり離れた場所にあるアパートへと向かう。



 ……まさか?



 その、まさかであった。


 二人は……実に慣れた様子で、その内の一室へと入る。玄関横の窓向こうにて照明が点いて、しばらくして……明かりが消えた。


 ……木本優奈は、出てこない。


 心が、凍りつく。心臓の音が、かつてない程に煩い。足音を立てないよう、必死になって気配を消しながら歩み寄り……そして。




 ――ぁん。




 玄関の扉越しに、その声を耳にした瞬間――剛は、理解した。


 聞いた覚えも体感した覚えもないが……思わず疼きを覚えるほどに甘ったるいその声が、優奈の声であるということを。


 それが……SEXの最中に零したであろう、愛しい恋人のモノであるということを。


 あまりに……あまりに理解を拒む現実を前に、剛は……しばしの間、思い出の中へと意識を飛ばした。


 ……恋人である優奈との思い出が次々に脳裏へと浮かんでは、消える。


 色々な所へ行ったし、色々な事をした。仲良く夜更かししたこともあれば、喧嘩して数日口を利かなかったことだってあった。


 その、思い出の少女と……聞こえてくる少女が……一致しない。同一人物であると分かっているのに、心が受け入れる事を拒んでいる。



 ……。


 ……。


 …………我に返った時、剛は、自室のベッドに座っていた。



 何処をどう通って帰って来たのか、覚えが無い。傍には、鞄が無造作に投げ捨てられている。時計を見れば、時刻は……アレから、二時間近くが経っていた。



 ……。


 ……。


 …………夢かと、思った。



 だが、夢ではない。スマホを見れば、確かに……確かに、電話をした形跡がある。


 あの時、己からの電話であると通知された画面を、鬱陶しげに見やった……幼馴染の恋人の顔が、脳裏に浮かぶ。



 ……。


 ……。


 …………涙は、出なかった。同時に、怒りも湧かなかった。



 只々、『何故?』という言葉だけが心の中で渦巻く。


 アレが脅されていたとかであれば、嫌そうにしていたのであれば、剛は幾らでも己の心を慰める事が出来ただろう。


 でも、そうではない。恋人は、脅されてなどいない。


 それならば、あそこまで蕩けた顔はしていないし……何より、あんな甘えた喘ぎ声など、零すはずも――っと。



「……剛」



 名前を、呼ばれた。フッと顔を上げれば、開け放たれた自室の扉の傍で……己を見つめる両親と、目が合った。



「……何が、あった?」



 父から、言葉少なくもはっきりと尋ねられた。


 『気の弱い熊』と称される事もある普段とは異なる、父の真剣な眼差し。


 それとは逆に、『気が強い虎』と称される事もある普段とは異なる、母の真剣な眼差し。


 初めて……おそらくは、そう。


 物心ついてから、おそらくは初めて真正面から向けられたであろう、両親からの真剣な眼差しを前に。



「……優奈が、浮気をしていたんだ」



 気付けば……剛は、己が見た光景を話していた。


 もちろん、実の息子が相手とはいえ、内容が内容だ。


 本当にそれは浮気だったのか、見間違いや勘違いではないのかと、念を押すかのように尋ねてきた。


 両親がそうなるのは、致し方ないことである。


 何せ、二人にとって、木本優奈とはもう一人の子供と言っても過言ではないぐらいの付き合いだ。


 当然、優奈の両親とて付き合いも長く、それこそ互いの子供が赤ちゃんの頃から愚痴やら悩みやらを零し合った仲だ。



 ――だから、剛は答えた。見間違いや勘違いではなく、この目で全てを見た、と。



 電話を掛けて本人確認をして、己が見ている事に気付かずに嘘を付かれ、その足で見知らぬ男の住まうアパートへと一緒に入り……そこで、聞いたことが無い甘い喘ぎ声を発していた、と。


 本音を言えば、口に出すことすら辛かった。


 でも、痛みは覚えるが……口に出せば出す程、胸中にて渦巻くナニカが僅かばかり薄れてゆくのが分かった。説明の時間は、全体で5分とない……でも、それでも、心が軽くなった気がした。


 そして、己の両隣に腰を下ろし、少しでも心の痛みを和らげようと背中に腕を回し、頭を撫でてくれる両親の温もりが……涙が出そうになるぐらいに、嬉しかった。



 ……。


 ……。


 …………そうして訪れた沈黙の……最中だった。


 チラリと、父と母は互いに視線を見合わせる。言葉には出さなくとも、どちらがこの手の問題について得意なのか……分かっていたのだろう。



「――で、剛はどうしたい?」



 そう、ポツリと尋ねたのは、母であった。それは、再び5分ほどの沈黙を置いた後の事で……父の方は、静観するようであった。



「はっきり言っておきます。剛の話を聞く限り、優奈ちゃんはキッカケ一つで浮気をするタイプの子だった。これはどちらが悪いという話じゃない、あの子はソレが出来る子だった……ただ、それだけ」

「……うん」

「辛い事だけど、受け入れなさい。事情があろうが何であろうが、あの子は剛を裏切った。それ以上でも以下でもなく、あの子は剛よりもポッと出てきた男を選んだ……分かっているわね?」

「…………うん」

「あの子は、良いなと思った男に対して片っ端から股を開く子じゃない。だからこそ、余計にはっきりしている。剛は、その男に負けたの。十数年……物心ついた頃から積み重ねてきた時間も思い出よりも、その男の方が魅力的だった……それが、事実よ」

「………………っ」

「寂しかった、不安だった、そんなのは自分に甘いだけの言い訳。これもはっきり言うけど、そういう言い訳を零す子は、絶対に相手が同じ言い訳を零した時……それを許さない。自分の事を棚に上げて、浮気した言い訳を責め立てる。口には出さなくても、心の中でそう思い続ける」

「…………」

「そして、そういった子は……口では幾らでも反省の言葉を零すけど、浮気相手が1番である事を変えない。例え剛がどれだけ怒りを露わにしてその男の事を知ろうとしても……剛が傷つくことよりも、その男に迷惑が掛からないようにするでしょうね」



 耳を塞ぎたくなるような母の言葉を前に、剛は……返事が出来なかった。


 でも、言葉には出さなくとも、事実を事実として受け入れている事は……母には御見通しであった。



「……あの子の事はもう、忘れなさい。剛の知っている幼馴染の子はもういない。あの子は、幼馴染の顔をした別人。そう思って、あの子のことはすっぱり心の中から追い出しなさい」

「――何で、母さんが決めるのさ」

「そうしないと、あんたは未練タラタラに縋りつこうとするでしょ。そんなのは時間の無駄。私は、自分の息子が無駄に苦しむのは見たくはないの」

「そんなの……何で……っ!」



 故に、話を進める。苦痛に顔を歪めても、怒りで我を忘れ……掛ける直前に、ハッと気付いて心を静めようとしていても、構わず母は話を続けた。


 たとえそれで息子が傷つくことになろうとも、それが必要ならば。


 そうしなければ、時の流れが心を癒すまで……ずっと、息子がその場から動けなくなってしまうことを分かっていたから。



「……それなら、惨めな想いを抱えたまま二番目の……いえ、『一番ではない男』の位置に座る? それでも良いなら止めないけど……それをすると、あんたはこれから先、ずーっと……あの子の下になるわよ」

「――っ!?」

「今後、剛がどれだけ立派に成長しても、どれだけ立派な大人に成れても……ずっと、そこは変わらない。剛は、あの子にとって自分と対等の男じゃなくて、自分よりも下の男。また、良い男が出てきたら……あの子はさっさとそっちに乗り換えるでしょうね」



 クイッと、母の指先が剛の額を軽く押す。


 ほとんど力の入っていない指先に……ぐらりと、剛は身体が傾いてしまうのを抑えられなかった……と。


 ――無言のままに、膝の上にスマホが置かれた。


 ハッと横を向けば、おもむろに頷いた父は……ポツリと、言葉を零した。



「悶々と考えたところで埒は開かない。それで、区切りを付けなさい」

「…………」

「ママの言葉で動くんじゃない。自分の意志で、動け。ママを言い訳にせず、自分で決めて、自分で受け入れないと駄目だ」



 その言葉に、「ちょっと、パパ!?」母はピクリと目じりを痙攣させた。


 だが、ジロリと父から向けられた眼差しを前に、「……分かった」母は諦めたかのように溜息を零した。



 ……。


 ……。


 …………息をすることすら辛くなるような、張り詰めた空気の中で……剛は、ジッとスマホの画面を見つめる。寒くもないのに、スマホを持つ手が僅かに震えているのが見えた。


 かつて……電話一つ掛けるだけの事に、これほど緊張感と抵抗感と……嫌悪感が伴った事があっただろうか?



 ……。



 ……。

 …………覚悟は、決まらない。でも、両親の言う通り……このまま自分の胸の内に秘めたところで、何かが変わるわけでもない。


 それに……何よりも。



(……俺がもう、優奈をこれまでのように見られない)



 それが、全てであった。


 だから……画面をタップするまでは時間が掛かったけれども。



『……もしもし、剛? 帰ってきたばっかで疲れているんだけど……』

「木本さん、大事な話があります」

『――は? なに、いきなり? ていうか何で名字呼び?』

「俺たち、彼氏彼女の関係でしたよね?」

『――え、あ、へ、ちょ、ちょっと待って、話が見えないんだけれど?』

「只の確認、で、どうなんだ?」

『……もしかして、怒ってる? ごめん、さっきはキツイ言い方したし、最近は勉強ばっかりで顔も――』

「弁明はいいから答えてくれ。俺たちって、彼氏彼女の関係だよな?」



 言い訳を遮れば、沈黙が……少しばかり続いた。



『……そうよ。そりゃあ、最近は付き合い悪かったけど……ごめん、私も寂しいけど、あんたも寂しくて当然――』

「さっき電話をした時……俺、電話を出た木本さんの近くにいたんだ。男と嬉しそうにキスしながら抱き締めあっていたよね」

『――え?』

「俺は寂しかったけど、木本さんは寂しくなかったんだな。ごめん、気付かなかった。二人の邪魔になってたみたいだ」

『え、え、え、あ、いや、え、そ、それは違う、何かの勘違い――』

「俺からの電話に出て、鬱陶しそうな顔で通話を切って、男と一緒にアパートに入って……エッチしている声も、聞いた」

『…………』



 続けられた弁明に覆い被さるように、事実を押し込む。


 ひぅ、と息を呑む音が聞こえてきたが、かまわず剛は……一度、己の唇を舐めてから……はっきりと、告げた。



「――別れよう。俺はもう、そういう関係で木本さんと一緒には居たくない」



 その瞬間……時田剛の初恋は終わった。


 この時の剛は……いや、この後においても剛は気付かなかったが、幼馴染の浮気が露見し、初恋に別れを告げたその日。



 その日は奇しくも……剛と優奈が初めて顔を合わせた日であった。



 そして、同時にその日は……実質的には世界を支配する側となった『異世界に住まう人達による正式な交流』が始まった日でもあった。


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