第三話: 曰く、その背中には鬼が宿っていたとか




 ――数が一つ、上がる。文字だけを読めば大した事ではないが、学生という身分からすれば、その一つがそれなりに重要であった。



 一年生が二年生へと進級を果たせば、その分だけ三年生が卒業する。空いた一年の枠に埋まるのは、新たに入学を果たした新入生たちだ。


 その変動の中で学年の区別なく例外なく起こるのが、クラスメイトの関係だろう。


 進級の際に仲の良かった友人や話の合うクラスメイトと別れるのも、何ら珍しいことではない。もちろん、全員が全員そうなるわけではないし、何なら変わらない人たちも珍しい話ではない。


 3人グループだったのが二人と一人に別れる事もあれば、4人グループがそのまま同じクラスになる場合もある。逆に、一年の時には離れていたが、二年になって同じクラスになる事もある。


 当たり前といえば当たり前だが、顔ぶれが変わって新たな教室に席が移動した生徒たちにとって、その変化の受け入れは人それぞれであった。


 ある者は1年ぶりに同じクラスになった友人と肩を並べ、ある者は友人たちが別のクラスになったので寂しそうに外を眺め、ある者は我関せずと言わんばかりにスマホなどを取り出し、時間を潰している。



 それはある意味、一年前……彼ら彼女らがこの学校に入学した時の光景の、焼き直しであった。



 違うのは、その時は高校という環境にすら慣れていなかったのが、今は環境という部分だけは慣れているので……そういった居心地の悪さを覚えたりはしないという点だろう。



 ……その中で、一人。二年生になって気持ちが浮つく最中、他の者たちとは幾らか異なる雰囲気を放っている男子がいた。



 その男は、何処となく浮足立った雰囲気を見せている他のクラスメイトとは違い、机の上に広げた教科書やら参考書やらを見やりながら、ノートにガリガリとペンを走らせていた。


 クラスメイトと雑談をするわけでもなく、かといってスマホ等で暇を潰しているわけでもない。只々、脇目も振らずに勉学に……印字されている方程式を暗記する事に全力を注いでいる。


 ぶつぶつ、ぶつぶつ、ぶつぶつ……と。


 本人にだけ分かる程度の声色で復唱しているのだろう。その声は小さく、隣の席に腰を下ろしていても断片すら聞き取れない程である……のだが、不幸な事に、何かを呟いているというのを聞き取れる程度には大きい。


 それ故に、近場の席になった男子たち(なぜ、その一角だけ男子が固まっているのかは……お察しである)は、薄気味悪そうに顔を背け、机を少しばかり離している者すらいた。


 けれども……当の男は気にした素振りもなく、ひたすらに勉強に集中している。その気迫に、普段は陰口を囁き合っている彼ら彼女らも、この時ばかりは気圧されたかのように、遠巻きに見つめるほかなかった。



 ……そう、実際に、彼ら彼女らは気圧されていた。時田剛という名の、様々な悪名を持つ……その男子の姿に。



 一学年の時、剛と同じクラスだった者たちは例外なく首を傾げている。記憶の中にいる彼と、一心不乱に教科書を睨みつけては暗記を繰り返している今の彼と、その姿が一致しないからだ。


 というか……そもそも、会話らしい会話をした覚えがないので、一致も何も無いのだが……まあ、そこはいい。とりあえず、重要なのは『傍目から見た限りでの時田剛』の事だ。



 ……少なくとも、遠目で見る分には、時田剛という生徒はそこまで悪名を轟かせるような生徒には見えない……という認識だけは一致していた。



 何故なら、時田剛という生徒は周囲から腫れ物扱い(噂の影響で)されてはいるが、だからといって、誰かに暴力を振るう等といった、いわゆる不良的な行動を取ってはいないからだ。


 成績も悪いという話は出ておらず、教師に用事を頼まれれば嫌な顔一つせずに手伝う。全員参加が決まっている委員の仕事でも同様の目で見られはするものの、仕事自体は真面目に取り組んでいる。


 なので、悪名が事実であるかはさておき、少なくとも、見た目だけは至って真面目な学生(悪く言えば、地味な男子)である……というのが、『時田剛』への共通した評価であった。


 ……で、だ。


 そんな評価を無意識の内に下されている事に気付いていないうえに、周囲から異様なモノを見るかのような視線を向けられている事にすら気付いていない、当の時田剛はといえば……だ。



(――国公立レベルの問題とか、そんなん無理だろ……!)



 表面上は只々ひたすら暗記に集中している、その内面は……当人ですら制御できない、焦燥感と不安とが入り混じるブリザードが吹き荒れていた。


 ……さて、いったい時田剛の身に何が起こったのか……いや、正確には、何が原因で今の状況に至ったのか。


 その答えを知る為には……現在よりも、時間を幾らか巻き戻す必要があって。始まりは、剛が女王と出会ってから数日が過ぎ、始業式を迎える……3日前の事であった。









 ――とりあえず、ある程度の準備が出来たらまた来るから、それまでお別れよ。




 その言葉と共に女王が剛の前から消えて、数日。


 あの出来事が幻や夢の類であったのかと錯覚してしまいそうになるぐらいに、その数日間は以前と変わらず平穏に過ごすことが出来た。


 ……もちろん、錯覚してしまいそうになる、というだけ。


 知らぬうちに、話が通されていたのだろう。それも、まともな説得ではない、一般庶民では足先どころか姿すら見えない高みに居る、絶対的な権力を持つ者たちの……丁寧なお願いによって。


 苦々しくも心から申し訳なさそうにする両親の姿を見るたび、『ああ、アレは夢じゃなかったのか』と思い知らされるのだから……まるっきり平穏と問われれば、そうでもなかった。



「――ハロー、ハロハロハロ、ハロー、時田剛くん。不安を隠しきれないアンニュイな横顔も素敵よ、剛くん。君さえよければ、何時でも筆下ろししてあげちゃうからね」



 そして、その日。何時ものように目を覚ました剛は、目の前に……というか、同じベッドの、同じ布団の中にいる女王の笑みを前に、ガチッと全身を硬直させた。


 そうなるのも、致し方ない事であった。


 何故ならば、二人を隔てる壁は、剛自身が見に纏っている寝巻用のシャツと、隔てる壁と称するにはあまりに頼りない女王のブラジャーのみ。


 そのブラジャーとて、何とも魅惑的な造形をしている。


 小学生の頃に見た、母親が身に着けていたモノとは雲泥の違い。機能性だけでなく、己の魅力を引き立たせる事にも力が注がれている、逸品。


 加えて、女王のスタイルは世辞抜きで凄い。


 カップの大きさ等が分からない剛にも一目で認識出来てしまう、掌では到底収まらない膨らみが二つ。Iの字の谷間が、スルリと胸元に形成されている。


 それは正しく、色気であった。


 眩しさすら感じてしまう程に瑞々しい肌色が、すぐ目の前に広がっている。熱を持ち、弾力を想起させ、実体感を伴って、剛の眼前に存在している。


 もはや、暴力である。


 そんな光景を前に……平静を装えというのが無理な話だろう。特に、色々な意味で成長著しい青少年に対してそれを求めるのは、酷というものだ。



「熱い視線をありがとう。お堅い反応だったから不安だったけど、うんうん、しっかり思春期していてお姉さんは安心だぞ」



 それを重々承知している女王は、だからこそ、煮え滾りつつも困惑のあまり出口を見失っている、お年頃から向けられる青い性欲にけらけらと笑った。



「……起きた瞬間、同じ布団の中に見覚えのない女性が下着姿で居た、俺のこの驚きが分かりますか?」

「心臓には悪いけど、役得でしょ?」



 真っ向から断言されて、「そ、それは……」思わず剛は言いよどんだ。



「恥ずかしがる必要も、怖がる必要もない。健康的な男子なら、女とスキンシップして喜ばない者なんていないのだから……」



 その言葉と共に、いつの間にか伸ばされた女王の両腕が、剛の背中に回される。ハッと気づいた時にはもう遅く、剛の視界には……妖しく細められた女王の瞳が広がっていた。


 そうして初めて分かる……女王の瞳の色が、僅かばかり紫色を帯びているのが。


 パッと見た限り、こちらの世界の人間と姿形は同じでも……やはり、異世界人――あっ。



 ――ちゅっ。



 と、思った時にはもう、終わっていた。額から走る、何とも言えない感触。


 キスをされたのだと剛が理解するのと、僅かばかりに感じ取れる湿り気に意識が向くのとは……ほぼ、同じであった。



「……あ、あの、すみません……勘弁してください」



 辛うじて、意地の悪い笑みを浮かべている女王に抗議出来ただけでも……上出来だろう。



「……うふふ、ごめんね。あんまり可愛い反応だから、ついつい調子に乗っちゃった」



 頬は熱く、脳みそが茹ってしまったかのように感覚が鈍い。


 まるで風邪を引いてしまったかのような……そんな剛を他所に、女王は欠片の動揺も無く、スルリとベッドから出て……ぱちんと指を鳴らした直後、スーツを身に纏っていた。



「さあ、剛くん。私が何の為に来たか……だいたい予想が出来ているわよね?」

「えっと、準備が出来たら……でしたっけ?」



 むくりと身体を起こし、熱っぽい頬を手で扇いで冷ましながら……少し前の、別れ際に女王が言い残した事を思い出しながら答える。


 準備の詳細については詳しく語られなかったが、だいたいは想像が出来る。建物の用意とか、役所などの手続きとか、そういうのだろう。



 ……剛に課せられた役目はオーナーではあるが、その実体は、風俗店で勤務してくれる『夢華嬢』のスカウトである。



 言い換えれば、それしか剛に出来る事はない。


 そういった分野を目指していたわけでもなく、興味も薄かった一介の高校生に、いきなり銀行や役所や不動産などへの手続き、経理などの事務をやれと言われても、出来るわけがないからだ。



「そうそう、とりあえず建物とかの用意は完了したから、現地の確認をしましょうねって話よ」



 推測が、当たったようだ。大して嬉しいわけではないが、この人の突拍子な行動力を思えば……心構えが出来るのは良い事だ。


 事前に言われてもいたし、予定なども元々無い。


 友人も……中学のアレが原因で軒並み絶交となり、高校生に成った後も親しい友人は1人も出来ていないから……止めよう、少し悲しくなる。



「朝食は向こうで用意しているから、身支度が住んだら出発よ……良いかしら?」

「構いませんけど、ずいぶんと急ですね。それに、朝食まで用意してくれるなんて……」

「半ば強引に引っ張り回すわけだし、それぐらいはするわよ。それに、育ち盛りをご飯抜きで働かせるのは酷ってもんでしょ」



 言われて……思わず、剛は苦笑を零した。けして悪い意味ではないが、良い意味でもない……複雑な内心が込められた笑みである。



 ……これで2回目の対面だが、どうにも剛は『女王』と名乗る眼前の女の性格が掴めないでいる。



 強者としての残酷な強引さを見せる時もあれば、母性を想わせる労わりを見せる。


 かと思えば、今みたいに、気心知れた家族であるかのような、何とも明け透けな態度でからかったりもする。



 何とも、よく分からない人だと剛は思う……が、しかし、たった2回目とはいえ、されど、2回目だ。



 けして悪い人ではない……のだろう。


 と、同時に、良い人ではないのだろうが、彼女なりの方法で気遣ってくれている程度には……こちらを尊重してくれているのは分かる。



「それじゃあ、外で待っているから」

「あ、はい」

「あ、それと、タイミングが合えば、スカウト候補の夢華嬢と顔合わせするかもしれないから、身だしなみはしっかり、ね」

「――え?」

「まあ、そんなに気張らなくていいから。貴方なりに頑張ってお洒落した方が、私たちにはウケが良いから……じゃあ、また」

「え、え、え?」



 ただし……予告なく重大な事をポンと置いていくだけでなく。



「……あの」

「やだ……可愛い! 拙いなりに一生懸命考えてお洒落してくれているの、本当に可愛いし嬉しい、濡れる、超濡れる!」

「家の前でいきなり変な事口走るの、止めてくれませんか!?」

「でも、重要だから! そういう、私たちの為に頑張ってくれましたっていうの、本当に弱いの! これ、本当に重要だから!」

「分かりました、それが重要なのは覚えましたから、お願いだから静かにしてください……!」



 中々に心臓に悪いというか、人前では止めてほしい事を平然と口走るばかりか、公衆の目があるというのに、気にした様子も無く抱き着いて来るのは……正直、控えて欲しいと剛は思った。




 ……。


 ……。


 …………で、だ。



 取る物も取らずとは言い過ぎだが、兎にも角にも超特急で準備をして、促されるがまま女王の後に付いて行った剛が目にしたのは……高級ホテルかと見間違う程に豪華な建物であった。


 ついでにいえば、建物そのものがデカい。それはもう大きく、冗談抜きで東京ドームで換算出来るのでは……というか、ぐるりと外周を回るのに数分掛かったので、もう剛が許容できる範囲を超えていた。



 ……事情を知らない者が見れば、誰もが此処を『風俗店』とは思わないだろう……で、話を戻すが、建物の内装もまた半端なく綺麗であった。



 改築ではなく、本当に新築なのだろう。正面入り口に当たる自動扉のガラスは汚れ一つ無く本当に綺麗で、外からは見えないよう装飾されている。中に入れば、さらにソレが顕著になる。


 天井もそうだが、壁も床も照明の光が反射して、眩しさを覚えるほどに綺麗。下手に掃除をすると、掃除した所が汚れてしまいそうで不安を覚えてしまうぐらいに、綺麗であった。


 その綺麗な内装だが……必要最低限、というやつなのだろう。


 正面入り口となる大きめな自動扉からまっすぐ、数十メートル先にある受付まで。『ご購入』『お支払』『注文』の小さな看板が各二つずつ設置されたそこに至るまで、ほとんど何もない。


 有るのは、各メーカーの各種自販機と、各種銀行対応のATMぐらい。休憩用(実質、喫煙スペース)のソファーやテーブルが申し訳ない程度に設置されているぐらいであった。


 その受付(というか、受付台)とて、まるでホテルのフロントを思わせるかのような造りをしている。受付の奥に設置された、部屋番号だと思われる数字が印字された引き出しが、ズラリと並んでいる。



「……何も無いんですね」



 思わず、といった調子で剛は呟いた。


 風俗店に行ったことなどない少年ではあるが、薄らとした知識は、漫画やネットで仕入れている。加えて、いちおうはオーナーになるのだからと、スマホで新たに仕入れた知識もある。


 だからこそ、眼前に広がる光景……感じ取れる真新しい雰囲気を前に、剛が抱いた感覚は、『調べていたモノと違う』、というカルチャーショックにも似た淡い驚きであった。



「……他のとは違う、って思った?」

「あ、いえ、そんなつもりじゃ……」

「いいのよ、それで。だって、うちは『夢華屋』。その名は伊達ではないし、そんじゃそこらのお店と一緒なんて、プライドが許さないわ」



 目を瞬かせる剛を尻目に、「じゃあ、案内するわね」女王は颯爽と歩き出す。


 慌てて付いて行く剛を確認しつつ、受付の横にある通路……大きな暖簾で目隠しされたその先には、長い廊下と、点々と続いている扉が確認出来て……その直後、剛は先ほどとは別の理由で目を瞬かせた。


 一言でいえば、信じられない数のエレベーターが設置されていた。ズラーッと……それはもう、ズラーッと並んでいる。冗談だろ、と思わず胸中で呟いたぐらいの光景だ。


 その数は……ちょっと、数えるのが面倒になるだけある。


 いや、もしかしたら、見た目がそう見えるだけで実際は違うのかもしれないが……見た目通りにエレベーターなのだとしたら、もう、どんな言葉を掛ければいいのか剛には思いつかなかった。



「この施設では、各階・各フロア・各部屋によって内装というか、『テーマ』が異なっているの。だから、同じようにエレベーターが並んでいるように見えても、全部が別のフロアに通じているのよ」

「こっちからは和風で、こっちからは洋風、みたいな?」

「大まかには、そんな感じ。純粋にホテルとしても利用出来るように区別されているフロアも有るから、それは客のニーズによって対応が変わるわね」

「なるほど……」

「1階は全て従業員スペースになっているから、お客が利用するのは主に2階より上。極力、お客同士が顔合わせしないようにはするけど、まあそこらへんは御愛嬌ってところかしら」



 入口から受け付け奥の通路前(つまり、暖簾が有る辺り)までは、光沢すら見て取れるツルツルの床であった。だが、暖簾を通り過ぎれば、隙間無く敷き詰められたカーペットの床となっている。


 ……何となく、空気が変わったような感覚を剛は感じ取っていた。


 どう言葉で言い表せば良いのか分からないが、嫌な感覚ではない。強いて挙げるとするなら……ワクワク感。『ココから先は、外とは違うぞ』という、自分だけの秘密基地に居るかのような不思議な感覚で……と。


 ――ぴんぽん、と。


 建物の雰囲気に呑まれっぱなしでいた剛の傍、気付かぬうちに動いていたエレベーターからの到着音。ハッと我に返った剛が振り向くのと、静かに開かれた扉から……美女が出てきたのとは、ほぼ同時であった。



(――っ!?)



 そして、その美女を目にした瞬間……剛は思わず動きを止めた。何故なら、その美女の恰好が……あまりに目に毒であった。



 有り体にいえば、美女は下着姿であったのだ。



 それも、布面積が少ないばかりでなく、明るさや角度によっては乳輪の色すらも見て取れるような……SEXアピールの為のモノであった。


 美女の視線が、剛へと向けられる。美女は、異世界人……なのだろう。


 全体の見た目は同じであり、一見する限りでは……こちらの世界の人間ととの区別はつきそうにはない。


 ……で、その美女だが、何もしてこない。手を振ったわけでもなければ話しかけたわけでもない。


 身動ぎするたびに揺れる、薄布では到底隠しきれない乳房をそのままに、小首を傾げて剛を見やる……ただ、それだけしかしていない。



(え、え、え!?)



 けれども、それだけで剛から冷静な思考を奪うには十分であった。何故なら、剛にとって……この対面は、初体験であったからだ。


 そう、それは正しく、剛にとっては初めての光景であった。


 初めて体感し、初めて対面し、初めて現実のモノとして感じ取った……性の一面。匂い立つような、本能の一面。女ではなく、としての一面。


 想像力豊かと言われれば、それまでだろう。


 だが、映像や漫画の向こうにしかなかった性行為SEXが、本当にこの建物で行われる予定なのだという事を……強く認識させられた瞬間であった。



「……女王、そいつが例の子か?」

「ええ、中々に可愛い子でしょ?」

「ああ、無垢で意地っ張りで……食べてしまいたくなる」

「食べるのは駄目よ……ていうか貴女、なんでそんな恰好で出歩いているのよ」

「事前の練習みたいなものさ。管理人を任せられているとはいえ、私もまた現役なのだぞ。愛しき彼らを案内する腕が衰えては興醒めしてしまうだろう?」



 呆然とする他ない剛を他所に、顔見知りであるらしい二人は和やかな様子で雑談に興じている。その会話もまた童貞であり思春期である剛には、些か刺激的なものであった……と。



「――君が、時田剛くんだね?」


 ズイッ、と。



 何時の間に近づいて来たのか。視界一杯に広がる、美貌。何処となく嗅ぎ取れる、形容しがたい甘い匂い。


 左目の下に有る幾何学模様(にしか、剛には見えない)の痣(刺青、か?)すらも、色気を助長させている。



(む、胸……た、谷間が、凄い……!)



 真正面に来て実感する、美女の華奢さと小柄さ。


 威風堂々とした雰囲気とは裏腹に背丈は中々低く、ギリギリ160センチ後半に入る剛の目線の位置が、美女の旋毛に当たる。


 故に、視線を下げられない。


 目線を合わせようとすれば、メロンを二つ押し込んだかのようなブラの谷間が、嫌でも目に留まり……デカい、と、率直な感想を剛は抱いた。


 けれども、視線を迂闊に戻せない。


 視線を引き付ける美貌を直視し続けているだけで、どうにも気分が落ち着かないからだ。


 でも、だからといって視線を動かせば、無意識の内に視線が下がり……ただ、二つの脂肪を一か所に集めているだけなのに。


 なのに、たったそれだけに、視線を向けてしまい……どうしていいか分からず、剛は視線を四方八方にさ迷わせることしか出来なかった。



「……気恥ずかしいのは分かるが、大事な話だ。頑張って、視線を私に向けなさい」



 そう言われた剛は、それもそうだと思い直し、視線を戻す。


 しかし、そうなると今度はその美貌がネックとなる……が、気合で誤魔化す。チラチラと、どうしても視線を下げてしまう事もあるが、「――よし、それでいい」美女は合格と判断してくれた。



「私の名は『アビィ』、異世界人だ。こう見えて、を務めさせてもらうことになった。見た目は君たちとそう変わらないが、少しばかり違う所もある……例えば、コレだ」

「あっ」



 改めて自己紹介をした美女……アビィは、淡い赤色の髪をサッと掻き上げる。露わになったのは、であった。


 長さにして、10cm程だろうか。


 まるで、書物などに登場するエルフのようで……作り物ではない、ある意味では初めて対面するに、剛は我知らず目を瞬かせた。


 たかが耳の長さと問われればそれまでだが、されど、耳の長さだ。


 異世界人を自称する(事実なのだろうが)女王も正しく異世界人なのだろうが、女王の見た目は剛たちが暮らすこの世界の女性たちに比べて、明確な違いはない。少なくとも、見える範囲では。


 だからこそ、異世界人を見た事はなかったけど、俺たち人間とほとんど変わらないのかな……と、剛は漠然と考えていたし、女王を目にして、その考えを無意識の内に補強していた。



「……そんなに尖った耳は珍しいのかい?」

「え、あ、いや、そんなわけじゃ……」

「気になるなら、触ってみるといい」

「いいんですか!?」

「耳を触るぐらい、減るもんじゃないよ……で、どうだい? 異世界人の耳を触った感想は?」

「……あの、温かいです。それに、何だか柔らかい……けど……」

「君たちと、そう変わらないって言いたいのだろう」

「……えっと、はい」

「そりゃあそうさ。身体が鋼で出来ているわけじゃない、異世界に住んでいるだけの生物だからね、私たちは」

「…………」

「動けば汗も掻くし、垢も溜まる。物は食うし糞尿は出すし、鼻水だって出るし涎だって出る。見た目に多少なり違いはあっても、同じように物事を考えている、知的生命体ってだけだよ」



 それが、一瞬で壊された。実際に触れてみて、それを更に強く実感する。


 カルチャーショック……という言い方は何だが、正しく、剛は己が無意識に抱いていた常識の一つを壊されたような感覚を覚えたのであった。



 ……。


 ……。


 …………そうして、せっかくだからと同行することになったアビィを連れて。



 色々な意味で目のやり所に困りながらも一通りの施設見学を終えた剛は、『スタッフのみ』と張り紙が張られた部屋へと通され、小一時間後。



「……お腹も満たされた事だし、本題に入りましょうか」



 思いの外豪勢であった朝食を、育ち盛り特有の旺盛な食欲でもって胃袋へと修めた剛は、出された紅茶をゆっくりと飲みながら……女王より掛けられたその言葉に、顔を上げた。



「すっかり忘れちゃっている顔をしているみたいだけど、覚えているかしら? 剛くんは、彼女たちを説得してここで働いてもらう為に来たのよ」

「……あっ」



 言われて、思い出した。そういえば、そうだった。


 反射的にアビィへと目を向ければ、「良い食べっぷりだったよ」と、どことなく微笑ましげな様子で剛を眺めていて……さて、と居住まいを正した。


 それを見て、剛も見よう見まねで居住まいを正す。



「時田剛くん。まずは、私の話を聞いて、それから返事をしてくれればいいよ」

「――は、はい!」

「気楽に気楽に、そこまで緊張しなくていい……さて、まず、私たちから剛くんに伝えておく事は三つ」



 ピン、と。背丈相応に小さな指先が三本、まっすぐ立てられ……一つ、曲げられた。



「一つ、私たちは誰かに強制されたわけでもなく、自分の意志でこの仕事に就いている。なので、私たちを哀れに思う必要はない。私たちが自ら選んだ結果、此処に居る……ということだよ」



 二つ目の指が、曲げられる。



「次に、私たちが君に求めるのは、だ。つまり、私たちの為に、君がどれだけ本気になっているか……どれだけ私たちに真剣になってくれているか……それを、知りたい」



 その言葉と共に、立てている最後の指が下がった。



「その為に、君には私たちが不定期に出すをクリアしてもらう。もちろん、頑張れば君でもクリアできるモノだ。そのをクリアすれば、私たちは順次働く。しかし、達成出来なければ、その時点で私たちは向こうへ戻る……分かったかい?」



 尋ねられて……剛は頷いた。


 少しばかり気になる点はあったが、思っていたよりも可能性が見出せそうな展開に、剛は内心にて少しばかり安堵のため息を零した。


 正直……二言目にはと言われるのを覚悟していた。


 何せ、剛は素人だ。お金もコネも地位も何もない。勉強も運動も不得手というわけではないが、注目される程ではない……そんな、庇護されている子供だ。


 そんな子供が、ある日突然自分たちの上に立って、生意気にも命令してくる……想像するだけでも分かる。けして、良い気持ちにはなれないだろう。



 ――それを、アビィは口にはしなかった。子供として剛を見てはいるが、子供扱いはしなかった。



 あくまで対等に、茶化すこともせず、と条件を出して来た。


 課題をクリアして、自分たちを説得してみせろと言ってきた。



 ――それならば……やれるだけ、やってみよう。



 そう結論を出した剛は、そのについて尋ねた。


 いちおう、自分(時田剛)は学生であり、金銭面での課題はクリア出来ない事は改めて伝えておく。



「それは分かっているさ……ふむ、そうだね……君が出来そうなもので、君が誠意を私に示せるだけの課題は……」



 ……。


 ……。


 …………そう告げてから、時間にして30秒程。


 他の人達にとっては気付けば通り過ぎる程度でも、剛にとっては……些か居心地の悪い一時を経て。



「よし、君には国公立レベルの学力を示してもらおう」

「――えっ!?」

「第一の課題は、学力だ。私たちが用意する学力試験を解いて貰う。全問正解出来れば国公立の大学に入れるぐらいのレベルのやつだ」



 居心地の悪さなど地平線の彼方までぶっ飛ばす、凄まじい難題が出された剛は。



「……マジ?」



 思わず、そう呟く他出来なかった。



 ……ちなみに、マジであった。



 その結果……進級早々、剛は切羽詰まった受験生のような鬼気迫る顔で、頭の中に公式や方程式を叩き込み、それを素早くアウトプットする作業に没頭する日々が始まったのであった。



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