第20話 森沢姫子の記憶(1)
青空に浮かぶ入道雲が綺麗な昼の事だ。
私は夫とデートをしていた。ショッピングセンターに行くためにバスを待っていた。
バス停には私たち以外は誰もいなかった。木の影がベンチに座る私たちを覆っていた。バス停の前の坂道に車は一台も訪れなかった。ただ、電信柱がひっそりと並んで、整然と影を落としていた。蝉の声しか音はしなかった。世界で二人きりしかいないような錯覚に襲われた。
夫が手を重ねてきた。弱い力で握ってから、指を捏ねた。退屈しのぎの手遊びだ。それは段々と粘度を増し、愛撫と呼べるものになった。じっとりとした愛情の発露を私は喜んで受け入れた。
やがて顎に手が添えられた。キスをする合図だった。
その時、蝉の大合唱の他に坂を下る自転車の音がしていた。夫の申し出を受け入れれば確実に見られるだろう。嫌な気持ちはあった。あった筈だった。しかし、夏の熱と若さが不快さを打ち消した。
瞼を下ろすと、馴染んだ柔らかさが唇に触れた。
自転車の音は大きくなっていった。私たちは聞こえない振りをしていた。ただ、互いだけに集中していた。
自転車がブレーキを踏んだのか、甲高い嫌な音がした。間髪入れずに高低入り混じった激しく短い音がした。同時に、ギャンッという短い悲鳴が聞こえた。
男の声だ。高めの厚い声。――清美の声だ。
夫から離れ、悲鳴がした方を見た。
私たちに向かうようにリュックが投げ出されていた。紺地だから、砂埃が目立った。
電信柱の横で自転車が倒れていた。銀色のフレームに囲まれた車輪が力なく回っていた。前輪はひしゃげていた。
電信柱の下では清美が蹲っていた。コンフォートサンダルの脱げかけた足は記憶よりも大きかった。足首から上を隠す黒色のパンツはゆったりとしたつくりだったが、皺がその下にある脚の逞しさを伝えていた。灰色のTシャツに覆われた背中は広く、十七歳にしては大人びて見えた。頭を押さえていて表情は見えなかった。夏の真っ直ぐな日差しが指から零れ落ちた髪の色をいっそう明るく見せていた。近づくと荒い息と混じって、つーっという声が聞こえた。
そう、私はいつの間にか清美へと駆け寄っていた。そして、しゃがみこんでその頭に手を伸ばそうとした。追いかけてきた夫に腕を引っ張られ、かなわなかったが。
「清美、大丈夫?」
言葉をかけると、清美はゆっくりと顔を上げた。額を押さえた手の下で大きな目が潤んでいた。存外幼く見えた。
「頭、打ったんだよね。見せて」
清美は一度瞬くと、ぎこちなく笑みをつくった。
「大丈夫じゃ、けん、……な、気にせんといて」
歯切れの悪い言葉と共に身をひいた。明らかに無理をしていた。清美にとっては、幼馴染同士――しかも片方に恋愛感情があった――がいちゃついていた直後のことだったから、気まずかったのだろう。でも、その時の私は別のことを考えた。直前に自分が何をしていたかも忘れて、清美は喋るのも辛い程に痛いのだと思った。
「動けないの? 伯父さんに来てもらう?」
「別に平気じゃって、ほんと」
そこまで言った時、清美ははっと目を見開いた。そして、ぎゃーっと声を上げた。私が驚いている間に立ち上がり、自転車に近付いた。
「え、え、え、えええ、何、嘘、嘘、嘘嘘嘘嘘、嘘! 何じゃ、嘘、嘘じゃろ! 前輪だけ? 前輪だけで済んでん? 動く? 動くんか! 動かしてええんか? えええ? 何じゃこれ何なんじゃこれ! 直んの? 買った方がええの? 前輪だけってどうなんの? え、え、ええ、前輪だけで済んでんの? 済んでんよな! 済んで! 済め! てか、壊れんなや! ちょっと当たっただけじゃろがあ! んぎゃあ! 何でじゃ! うぎいいい」
自転車を立てたり、動かしたり、止めたりしながら清美は一人で騒いだ。完全にパニックに陥っていた。
本人は必死に違いなかったか、見ている方からすれば可笑しかった。清美は私が知っていた清美のままだった。そう確信して初めて清美の悪い噂を忘れきっていたことに気付いた。
夫も私と同じ思いだったのだろうか。わざとらしく溜息を吐くと、清美に近づいた。
「人様の邪魔をするから罰が当たったんだ」
よく遊んでいた子どもの頃と変わらない横暴な言葉だった。清美も子どもの頃と同じようにむっとして反射的と思える速さで言い返した。
「あんたらが人目につくとこでやってたんじゃろが! 邪魔したくなかったわい! 家でせえ! 家で!」
「はあ? 家? お前、ムッツリかよ」
夫が嘲笑を向けると、清美がいーっと歯を見せた。
「はあああ? やらしい考えすなや!」
懐かしい空気に嬉しくなった。私も加わろうと、清美の鞄を拾った。二人の会話を聞きつつ鞄の汚れを払った。
「豊一、意地悪しちゃいかんよー」
そう言いながら清美に渡そうとすると、夫に引っ手繰られた。そして、夫は鞄を投げつけた。清美が潰れたような声を出して受け取ると、夫は鼻で笑った。
「続きするから早く帰れよ」
「いちいち言わんでも帰るわ!」
清美は唇を尖らせて、鞄を自転車の籠に突っ込んだ。そして、そのまま帰ろうとするので、手を伸ばした。またも夫に腕を引かれた。
「送るわい」
私が提案すると、清美は横目で応えた。
「いらんわ。あんた来ても自転車治らんし」
「頭痛いでしょ」
「ショックで痛み飛んだわい。じゃあね」
清美はひらひらと手を振り、自転車を押して歩きだした。止めようとすると夫に強引に抱き寄せられた。清美は歩みを止めなかった。それどころか、早足で歩いていた。
清美の全身が視界に収まった時、夫が噛みつくようにキスをしてきた。私は拒めなかった。がたんがたんという壊れた自転車の音が聞こえなくなるまで、夫は角度を変えながら唇を離さなかった。清美への罪悪感があった。
思い返すと、この時、私はちゃんと清美のことを思っていたのだ。
清美を目の前にすれば、悪い噂に惑わされずに彼の為に行動できていたのだ。
自分の意外な一面に安堵する。雨宮に掻き乱された心が冷静さを取り戻していく。
爽やかささえ覚えつつ、帰路についた。
歩みを進める度にわくわくとした気持ちが湧いてきた。
雨宮が駄目だったならば、誰に清美の居場所を聞こうか。清美の伯父夫妻ならばちゃんと理解してくれるかもしれない。宗助に見つからないようにするにはいつ行けば良いのだろう。たまに遠出しているようだが、規則性はあるのだろうか。伯母がスーパーで一人の時を狙った方が確実だろうか。良いかもしれない。そうしよう。今度の特売日に長くいれば会えるだろう。その前にすぐに家を出られるように支度しなければならない。余分なものを捨てて荷物をまとめよう。並行して離婚の話も進めよう。清美と会う前に決着はつかないだろうが、清美の負担が少しは軽くなるだろう。
私が選択するものは全てが輝かしい正解であるような気がしていた。
足が軽かった。空気に瑞々しかった。青空が美しかった。見慣れた緑が鮮やかに見えた。
――犬の鳴き声が聞こえるまでは。
その声によってぽんかんが想起された。そして、あの日のことを思い出してしまった。
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