第18話 雨宮信生の独白(7)
「何でそんな自分勝手なん?」
鼓膜を突き破られたような心地がしました。それで漸く気付いたのです。
――目の前の人間は、怒りに燃えていました。
「俺の為のように言いやがって、性質悪いわ」
心臓が掴まれた気がしました。
「あんた一人だけの為じゃろが」
腹の奥が差し込むような冷たさを感じました。
「自分の事しか考えてねえんじゃろが」
突き放すような声に反射的に腕に縋ると、体ごと振り払われました。ベッドに上半身が叩きつけられました。清美にぞんざいに扱われるのは初めてのことでした。ショックで頭がぐらぐらとしました。丸まって泣いてしまいたい気分でした。しかし、それさえ許してくれない重い空気がありました。体を起こしながら、清美を見上げます。
「清美」
僕の声に清美はぎろりと睨みつけてきました。委縮して自然と正座をしていました。
「何やその体勢。何言うてもあんたの思い通りになんかならんよ。他に都合いい人間探せばあ?」
ごめんなさい、と喚きました。清美は動じませんでした。僕を無視して立ち上がろうとしました。服を掴んで引き止めました。
「ごめんなさい。嫌わないで」
清美は余程その言葉が気に入らなかったらしく、舌打ちして僕をまた睨みつけました。
「俺がどう思おうがどうでもええじゃろ」
違う、と叫びました。涙が零れました。清美がぎょっとしました。
「清美じゃなきゃ駄目なんです。僕は……僕は」
清美が唇を尖らせ、座りなおしました。安堵するも涙は止まりませんでした。清美は黙って僕の言葉を待っていました。必死に言葉を探しました。
その時、初めて会った時のことを思い出しました。見返りなく僕に優しくしてくれた清美の姿をはっきりと浮かべました。
そして、気付いたのです。――僕の思いは結局その時から変わってない筈だと。
「清美に初めて助けてもらった時、嬉しくて」
胸の奥がじんわりと温かくなっていきました。
「僕も見返りを求めずに人を助けられるようになりたくて」
涙を拭い、清美を見上げました。
「清美が悩んでいるなら助けたかったんです」
自分の言葉に自分で納得しました。昨日から僕を支配していた黒々とした衝動が消えていきました。
「清美に、きっと、恩返ししたかったんです。それだけです。それだけの筈だったんです」
それだけ、と繰り返すと、また涙が溢れました。もうそれだけのことができないのです。僕は築いてきた関係を壊してしまいました。清美に怒鳴りつけて、怒らせて粉々にしてしまいました。
在りし日のことが儚く思い出されました。清美は僕の隙間を埋めるように傍にいてくれた。僕の手を引いて世界を広げてくれた。
もう二度とその頃の関係には戻れないのです。
嗚咽が止まりませんでした。虚脱感を覚えました。もう清美を引き止める気は起きませんでした。
許されないことをしてしまったのです。そして、終わらせてしまったのです。
なのに、あの人は僕を見捨てませんでした。僕の涙を拭ってくれました。
眉は下がり、唇は強張っていました。気持ちの整理がついていないようでした。それなのに僕との関係を戻そうとしていました。優しさに胸が痛みました。
「ごめんなさい。清美を傷付けた」
返事の代わりに清美は僕の頭を撫でてくれました。続ける言葉が浮かばず、僕はただただ泣きました。清美もそれに付き合ってくれました。無言で僕を慰めてくれました。表情も段々柔らかいものになって、ただ心配そうにしているものになりました。
完全に落ち着いた頃に、背中を擦っていた清美の手を押し返しました。
「もう大丈夫です」
気恥ずかしさがありました。清美が手を引っ込めました。そっか、と答えた後、清美は僕をじっと見つめました。そして、おずおずと話し出しました。
「俺もごめんな。……ちゃんと話せなくて、騙す形になって」
言い訳染みているけど、と清美が続けました。
「大事な人には知られたくないことじゃけん、話したくないんよ」
その言葉は偽りではないように思えました。けれど、やっぱり清美に頼られないのが悲しくて悔しくて唇を噛みました。
清美はごめんなと繰り返しました。辛そうに眉は顰められていました。そんな顔を見ると何かしてあげたくなりました。でも、僕には何もできませんでした。
いつか清美の助けになれるように、清美がいなくなったこの地で僕は頑張りました。
まずは僕のことで心配さすまいと、家族と和解して父の用意した道を歩みました。そのことについて清美の父が指摘したように不満がない訳ではありません。清美が家族から離れて自分で選んだ道を歩んでいたことを魅力的に思ったこともあります。でも、僕は父に管理されるのが精いっぱいでした。それに、清美も家族と和解したこと自体を評価してくれました。
親の会社に勤めることを清美に電話で伝えた時、安堵したような声で褒めてくれました。僕が成長したと認めてくれました。
それでも清美は僕に悩みについてのことを何も言ってくれませんでした。
あの日、豊一さんに暴かれるまでは。
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