第19話 雨宮信生の説得
「……僕は貴方が羨ましい」
雨宮が突然、私を睨みつけた。
「恋愛感情を抱く程に貴方を信頼していた筈です。高校に入って暫くはきっとまだ信頼し続けていた筈です。貴方になら、きっと悩みを打ち明けられたのかもしれない」
彼はわなわなと震えていた。
「でも、貴方はその立場をどぶに捨てたんです。高校の時、清美が荒れた時にどうして言葉をかけなかったんですか?」
唐突な問いに体が強張る。しかし、返事は必要なかったようで彼は言葉を続けた。
「白水先輩が言っていました。あの頃の清美は辛そうで見ていられなかったって。人懐っこかったのに、人を寄せ付けないように無理をしてたって。心だけじゃない。いつも何処かしら怪我しているようだって。だから、心配になって強引に声をかけたって。何故貴方はそうしなかったのですか?」
あの頃の、高校入学して暫くした頃の清美を思い出す。清美からは接してこなかったから、見かけた程度だ。あの頃の清美はつんとしてて凄みがあった。
「怖かったのよ……」
私の答えに雨宮は目を見開いた。
「不良の相手なんて一介の女子高生には無理な話よ。白水は男だし、体だって大きいし、怖いもの知らずっぽいでしょう。女で非力な私にはできる訳ないのよ」
そう言う他になかった。でも、雨宮は納得してくれなかった。体を震わせて不安定な声を出した。
「今、あの人、ヤクザなんですよ? 今! 今更! 今になってどうして清美を気にかけるんですか!」
清美の横顔が浮かんだ。中学生の時のものだ。私の話を楽しそうに聞いてくれている。瞳を細めると、睫毛が白い肌に影を落とした。
それを今になって、今更になって尊いと思う。
「好きになってしまったからよ」
愛おしさが身を貫く。この衝動は止められなかった。
「あの時はどうしようもなかったわ。でも、今は、今なら何だってするわ。清美だって、私と話せば辞めてくれる筈よ。嫌々なったのもあるだろうし、きっと協力してくれるわ」
雨宮が歯を剥き出し、両手で髪を掻き乱した。その目は嫌悪感を湛えていた。
「清美がまだ貴方を愛していると思っているんですか?」
聞くまでのないことよ。そう答えようとすると、雨宮が怒鳴った。
「昔の話ですよ! 終わった、終わり切ったことですよ! 正常であれば分かることでしょう? でも貴方には分からない! その方が都合良いから! そうじゃないと困るから!」
取り乱す彼に怖気づくも、彼の調子は変わらなかった。唾を飛ばしそうな勢いで捲し立てきた。
「現実逃避に清美を巻き込まないでくださいよ!」
「現実逃避?」
心外な言葉を繰り返すと、雨宮はかっと顔を赤く染めた。
「他に何があるって言うんですか? 家庭が上手くいってないストレスを清美で発散しているだけでしょう? 貴方も! 貴方の夫も! 逃げてるだけだ!」
「違うわ」
反射的な否定は更に雨宮を煽ったらしく、彼は地団駄を踏んだ。
「違わない! 貴方は、貴方らはあの頃の僕だ! 歪んで清美を求めた僕と同じだ! 清美のことを言うけれど、清美のことなんて一つも考えていない! 清美の心なんか考慮しない! 清美の安らぎなんて気にしない! 清美の幸福なんて想像さえしない! いや、清美が自分に消費されることこそが幸せだと勘違いしている! 清美が傷付こうが関係ない! 清美が壊れようと構わない! 清美が怒っても泣いてもどうだっていい! 清美の信条なんて踏みつけにしても気にしない! 清美の考えを、いや、清美が考えること自体を拒絶している! 清美の為を思ってと言いながら、自分の為にしか動かない! だから、清美をどれだけ傷付けても、清美は許して受け入れてくれると思っているんだ! 清美の慈愛は永遠に自分に降り注ぎ続けると勘違いしているんだ! 清美が一方的に献身的でいてくれると思っているんだ! 清美の全てが自分の為に成されたものだと思い込んでいるんだ! 清美を愛しているんじゃなく、自分しか愛していない! ただのナルシストに過ぎない! 清美自身が欲しいんじゃない! ただの都合の良い存在が、自分だけに手を差し伸べてくれる存在が、空虚なヒーローが欲しいだけなんでしょうが!」
そんなだから、と彼は瞳を潤ませた。
「そんな自分勝手な人間に消費されてきたから、清美が弱音を吐けなくなってしまったんじゃないですか!」
彼の瞳から大粒の涙が二つ落ち、土に円を描いた。
目の前の人間が妄想を喚きたてていることは分かった。それ以上の理解を頭が拒んだ。
これはきっと試練だ。乗り越えねば、清美と結ばれないのだ。
ふといつか見た光景を思い出す。
青空の下、ひまわり畑が広がっている。青と黄のコントラストの中、幼い清美が私の手をひいている。踊るように軽やかな足取りで当時は大きく見えた背中が揺れている。名前を呼ぶと太陽にも負けない明るい笑顔が振り向いた。
夜空に黄金色の花火が咲いた。ふと隣に視線を移すと、清美が空に見惚れていた。私に気付くと、顔を向けてはにかんだ。綺麗やね、と声変わりしたばかりの声で言った。栗色の髪が花火の赤に染まる。清美と一緒に空へと視線をやった。
これから先もまたそんなやり取りをしたい。その為に歩みを止めてはいけない。
雨宮と同調できないことを隠しつつ、言葉を選ぶ。
「清美が強がらないで済むよう、私、頑張るわ。信頼し合って、支え合ってみせるわ」
彼は舌打ちをした。そして、浅い呼吸を二三繰り返した。咳払いし、涙を拭った。
「……貴方、馬鹿ですよね。分かりました。伝え方を変えます。仮に、百歩譲って貴方が思う通りに清美がまだ貴方を愛しているとしましょう。貴方が清美に愛を伝え、あり得ませんが、清美もそれに応えたとしましょう。まず、足を洗うために尽力するでしょうね。詳しくありませんが、身体的に無事ではいられないでしょう。指を詰めるとかリンチとかあるんでしょうね。でも、泣きごと一つ言わずに耐えきるでしょう。貴方と結ばれる為に。それが終われば、豊一さんから貴方を奪うために動くでしょう。あの夜のやりとりを見るに、清美は豊一さんも大事に思っている筈です。けれど、貴方の為に対峙する訳です。必死に言葉を尽くして豊一さんに説得するでしょう。豊一さんはどうでしょうか。遠慮なく清美を詰るでしょうね。暴力に訴えるかもしれません。清美は……堪えてやり返さないでしょう。豊一さんを力で屈服させることはしないでしょう。清美は豊一さんを傷付けたくないでしょうから。なるべく言葉で向き合うでしょうね。そうして、一方的に傷付きます。一回で済めばいいでしょうけど、長期戦でしょう。豊一さんは簡単な人ではなさそうだから。清美は何度も何度も傷付くはめになるわけです。発端は貴方の気持ちです。でも、清美は貴方を責めないでしょう。貴方に対して心を開いていたら、涙を見せることもあるでしょう。貴方は慰めるのかな。そうして二人で手を取り合って愛を確固たるものにするのでしょうね。豊一さんが折れる頃には、二人に障害がなくなる頃には、清美は身も心もボロボロです。貴方の腕の中でぜえぜえと荒い息をし、痛みを堪えることになっているでしょうね。安易に想像できますよね。――だから、笑っているんですよね」
突然の問いに心臓が大きく跳ねた。
「嬉しくて仕方ないって顔をしていますよ」
顔に触れると、口角が上がっているのが分かった。嘘だ。頭が真っ白になる。
雨宮が溜め息を吐く。
「清美が自分の為に傷付くことを貴方は望んでいる」
違うと言い返すも、彼は聞き入れなかった。
「そんな人間が清美を愛しても良いと思いますか」
彼は問いかけを続けた。
「そんな人間が清美を求めて良いと思いますか」
上手く思考できない。彼の声がやけに響く。
「貴方なんか清美に近づく資格さえない!」
叫びに近い叱責が体を貫いた。
違う。違う。違う。
私は清美を思っている。私は清美を愛している。私は清美を傷付けない。私は清美との幸福を望んでいる。
清美だって私と結ばれれば、幸せだ。
――なのに、彼の笑顔が浮かばなかった。
雨宮を見ると、彼は呆れ果てていた。
「貴方も理解できたでしょう」
断言して、彼は踵を返した。どんどんと彼の背中が小さくなっていく。
私は視線を動かせない。
違う。違うのに。私はちゃんと清美を思っている。
必死に頭の中のアルバムをめくる。ちゃんと清美のことを考えている証を探す。絶対にある筈だった。確実に雨宮の言葉を否定できる材料が見つかるはずだった。
そして、高二の夏休みの出来事が指をとめた。
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