第17話 雨宮信生の独白(6)

 幸福感で胸がいっぱいでした。部屋に差し込む朝の光が祝福してくれているように見えました。

 夢の内容は非現実ですが、当時の僕の抽象的な理想でした。

 ――清美が弱音を吐くことができ、互いに通じ合っている。そんな関係を現実においても築かねばならない。それこそが清美の救いになる。

 盲目的にそう考え、すぐに行動を起こしました。茹った頭で清美に僕の家に来るよう連絡したのです。不幸なことに清美は僕に従いました。

 清美を待っている間、僕の思考は更に加速していました。清美が自分を愛していると思い込んだのを超え、清美が僕に愛を告げられていることを待って誘惑しているのだとさえ思っていました。

 地獄のような考えのまま、僕は清美を迎え入れました。

 自室に清美を招いたのは初めての事でした。その時の僕にはそのことはあまりにも刺激的でした。

 いつも使っている机が清美の傍にあるとやけに小さく見えました。清美の足を撫でるカーペットの毛が彼を取り込もうとしているように見えました。

 部屋全体が僕の腹の中のように感じました。この部屋に入った時点で清美はもう他の人のものにはならないと確信できました。腹の奥がじりじりと熱を持ちました。

 劣情を隠すために乱暴にベッドに座り、清美を隣に招きました。清美はまだ異変に感じていないようで、大人しく僕の言う通りにしていました。彼からすると反抗する理由もないのでそうしているのに、僕は清美の主導権を握ったと思っていました。

 清美に寄りかかると、心配そうな言葉が降ってきました。それを適当に受け流し、清美の左手に自分の右手を重ねました。清美が不思議そうに瞬きました。

「大事な話って何よ?」

 清美に言われて、自分がそうやって呼び出したことを思い出しました。

 もう僕の思いは知ってるのに何で聞こうとしようとするんだろう。ああ、言葉がないと不安なのかな。恋愛方面は普段と違って臆病なんだな。可愛い。

 可笑しくなって、笑いました。清美は釣られたように困った時にするあの笑みを浮かべました。意味不明だと思っての反応だったのでしょう。その時の僕には僕を求めているように思いました。

「もう少し、このままにさせてください」

 焦らしてみると、清美は曖昧に頷きました。勝手に勘違いした僕は清美の腕につうと右手を這わせました。困惑を見せる清美がカマトトぶってるように見えました。肩に触れ、シャツの上から鎖骨の窪みに指をいれました。不快だったのか、清美がその手を掴みました。

「何よ」

 静止の意味もあったのだろう言葉はせかしているように聞こえました。僕は左手を清美の肩に置き、膝立ちになりました。清美が僕を見上げます。上目遣いになると、童顔の父の遺伝が際立ちました。清美の手から手を抜いて首筋に指を這わせました。清美がびくと体を震わせ、目を眇めました。その手を顎へと移動させて固定しました。親指で唇に触れ、想像よりも柔らかいことに歓喜しました。荒くなる息を呑み込みながら、顔を近づけました。僕の青い髪が清美の白い肌を撫でていきました。鼻が触れ合って瞼を下ろしました。

 唇にあたったのは硬い感触でした。目を開けながら顔をひくと、清美の指が視界の下部を占めていました。清美の手が僕の鼻より下を覆っていたのです。

 驚いて清美を見ると、その手が額へと動きました。

「熱、まだ酷いんちゃう? 寝てた方がええよ」

 手がぽんぽんと頭を撫でて離れました。清美はふっと僕から顔を逸らしました。

「まだ愛媛におるけん、ちゃんと治ってから聞かせて」

 立ち上がろうとする清美の腕に咄嗟に縋りつきました。そして、清美が拒絶した挙句に無かったことにしようとしていると漸く理解できました。引き止めなきゃいけないと焦りました。

「愛しているんです!」

 センセーショナルな言葉を吐くと、清美が戸惑った顔で怖々とこちらを向きました。また拒絶される気がして怖くて俯きました。その状態で言葉を投げました。

「恋人になって下さい! 僕だけのものになって下さい。僕も清美だけのものになります。僕だけを見てください」

 思いつく言葉を兎に角並べました。

「清美に全てを捧げます。だから、清美も、僕の、僕一人だけのものになって下さい」

 清美の腕を掴む力を強め、返事を待ちました。清美は暫く黙っていました。ただ、その双眸が僕に向けられていることだけを感じました。血管が末端から冷えていきました。がたがたと震えました。あんなに自信があったのに、その時は不安でしかありませんでした。

「……俺もあんたのことは好きじゃよ。後輩としては。それだけじゃ、今まで通りじゃいかんの?」

 清美の声は温かくも冷たくも聞こえました。僕は顔を上げることをできない程に怯えていました。しかし、清美に対する欲望は少しも衰えていませんでした。彼の腕に頬を摺り寄せました。

「清美が、他の、僕以外のものに気をとられるのが嫌なんです。僕のことだけを考えていてほしいんです」

「無理じゃろ、そんなん。あんたも分かっとうやろ」

 清美の素っ気ない反応に恐怖が怒りへと変わりました。体を焦がす熱にせかされて顔を上げました。清美は困惑した視線を僕に注ぎました。それが更に僕を熱くしました。

「貴方次第でしょう? 僕はできる。やってきた! 貴方が全てだ!」

「そんな訳ないじゃろ」

 窘めるような言い方でした。それで、清美なりに元の関係に戻ろうとしていることに気付きました。僕は、此処を押し切らなければならないと考えてしまいました。

「あります! 初めて会ったあの日から、僕には清美さえいればよかった! 清美以外には何もいりません。清美だけが必要なんです」

「そんな哀しいこと言っちゃいかんよ」

 煩いと反射的に怒鳴りつけました。

「何が哀しいんですか? 僕の世界が清美だけになって、僕は随分幸福になりましたよ。誰も虐めてこない! 誰に無視されても気にならない! 最高ですよ!」

 ヒートアップする僕に反比例して清美は冷ややかになっていきました。

「気のせいちゃうんか」

「貴方に何が分かるんですか! 清美も僕だけを見てよ! 僕だけに何もかも委ねてよ! 僕に全て曝け出してよ!」

「できんよ」

「やらないだけでしょう? 僕の言う通りにすれば苦しくなんかならない!」

「元々苦しんでねえわ」

「嘘吐き! 苦しんでるから逃げるんだろ! 僕のものになればそんな惨めな真似しなくて良かったのに!」

 清美は言葉を返しませんでした。目を丸くして、ただ僕から目を逸らせずにいました。その表情は今までに見たことがありませんでした。長い睫毛がふると震えました。半開きの口から音が零れることはありませんでした。

 自分の口角が上がっていくのを感じました。どんなにいやらしい笑みを浮かべていたのでしょうか。清美は俯きました。

 清美の心が完全に剥き出しになっているのを感じました。僕は追い打ちをかけるように続けました。

「最初から僕のものになっていれば、父親の悪意なんか気にならなかった! 僕のものになる前の傷も埋めれてあげれてましたよ! 痛みだって忘れさせてあげられるのに! 二人だけの世界を築けば、ずっと平穏でいられるのに!」

 わなと清美の肩が震えました。僕の言葉が効いていると勘違いして高揚しました。

「今からでも遅くない。僕が今から全てを忘れさせるから、考え直せよ。ねえ、僕だけのものになりましょう?」

 頬に手を伸ばしました。指先が頬に触れる前に胸倉を掴まれました。そして、引き寄せられて、何も見えなくなる程に顔を近づけられました。

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