第16話 雨宮信生の独白(5)

 白い夢を見ました。

 夢の舞台はドアも窓もない白い部屋でした。天井一面がライトで、青白い光がむらなく降り注がれていました。

 その部屋の中央には大きなベッドがありました。僕はそのベッドに右向きで寝かされていました。僕の隣に清美が横たわっていました。体ごとこちらに向けていました。僕も清美も青緑の病衣を纏っていました。腰から下は薄い布団が掛けられていました。

 清美は心配そうに僕を見ていました。どうしたのか聞こうとすると鋭い痛みが走りました。悲鳴が飛び出すと、清美が頭を撫でてくれました。しかし、痛みは止まりません。それどころか段々と酷くなっていきました。

「痛い! 助けて!」

 堪らず清美に縋りつきました。清美は僕を抱き寄せてくれました。

 その時、ぬるりと不快な感覚が脚にありました。思わず脚を動かすと、足の指の感覚がなくなっていることに気付きました。びっくりしてまた動かすと、清美の脚にぶつかりました。清美の脚はふくらはぎの真ん中より下が無くなっていました。いや、蕩けて液体になっていました。そして、自分も同じ状態になっていることに漸く気付きました。僕らの体は液体へと変換されていっていたのです。不安で仕方なく、清美の首に腕をまわして、更に体を寄せました。

「大丈夫」

 清美の声は湿り気がありました。それで清美も痛みを堪えていることに気付きました。しかし清美は僕を励まし続けました。僕は自分のことで精いっぱいで清美に縋りつくことしかできませんでした。

 臍まで液体になった時、清美の僕を抱く腕の力が強くなりました。すると、痛みがひきました。嬉しくて、その事を告げました。そっか、と絞り出したような声が返ってきました。その後、荒い息が耳朶を撫でました。

 清美はまだ痛いのだと気付き、頭を撫でました。逆効果だったのか、清美は呻きました。それを打ち消すように清美は謝りました。そして、腕をほどきました。僕が一方的に抱き着いている形になりました。

 体の側面に触れていたシーツが波打ちました。清美がシーツを掴んでいることに気付きました。僕の頬に触れている首筋が汗ばみ始めました。

 僕は何度か名前を繰り返し呼びましたが、清美の返事は段々と小さくなっていきました。

 鳩尾辺りまで液体になった頃、耳元でぶちっという音がしました。驚いて清美の顔を見ました。清美は咄嗟に手で口元を隠しました。しかし、その手の下から血の雫が転がり落ちました。我慢の末に唇を噛み切ったことに気付きました。

 清美の顔は真っ赤に染まっていました。額は汗ばみ、髪が貼りついていました。目には今にも零れそうな涙の膜が張っていました。顔を隠すように清美が乱暴に手の甲で目を拭いました。血に汚れた唇と顎が見えました。

 そして、彼は微笑んだのです。明らかに強がりで、いつもより下手な笑顔でした。唇が描く弧は歪んでいました。睫毛に引っ掛かった小さな雫が光を反射していました。

「平気じゃけん、気にせっ」

 強がりの言葉を言いかけて清美はぎゅっと瞼と口を閉じました。その後、のけぞりました。白い喉が露になりました。噛み殺した悲鳴が息となって聞こえました。体は痙攣し、その凹凸が強調されました。手はシーツを掴み、大きく波立たせました。

 助けようと思って清美の肩を掴むと、体重の移動が上手くできずに清美を仰向けにしてしまいました。そして、僕はその上に乗ってしまいました。僕の体から零れる僕だった液体が清美の胸に広がりました。液体は過敏で、僕に清美の柔らかさを細かく伝えてきました。

 清美が喘ぎ声を零しました。顔を覗き込むと、清美の頬を涙が一滴転がり落ちました。

「我慢しないで下さい」

 そう告げると、清美は縋るように僕を見上げました。

「強がらなくてもいいんですよ」

 清美の腕を撫でます。指も蕩け始めていて、清美の逞しい腕に塗られた僕がぬらぬらと光っていました。

 清美も指を無くして踏ん張りが効かなくなったのか、大粒の涙を次々と零し始めました。そして、唇を一度噛み締めた後、掠れた声を出しました。

「もう嫌」

 これまで――そしてこの後も――現実では絶対に口にしないだろう言葉が転げ落ちます。

「耐えられん」

 その言葉は夢の状況だけでなく、現実の苦しみから出たものに思いました。いや、思いたかったのです。清美はずっとこんな言葉を溜め込んで誰にも零せなかった筈だから。

「辛い」

 清美の眉はぐしゃりと曲がっていました。

「何でこんな目にあわないかんの」

 鎖骨まで液体になってきました。清美の顎を伝って血と混じった涙がそれに混じりました。

「無理」

 清美の目尻がいっそう赤味を増しました。

「しんどい」

 唇は先程の血で一部赤く染まっていました。紅を差したようでした。

「苦し……」

 はあと熱っぽく喘いだ口から煽情的な赤い舌が見えました。

「……なあ、信生」

 絡みつくような声が僕の視線を清美の目へと固定しました。

 清美は涙が溢れ続ける潤んだ目で僕を見据えていました。もう無くなった筈の背骨が疼きました。

「助けて」

 引き寄せられるように僕は清美に顔を近づけました。

 首から零れた液体が清美の首や顎を撫でつけました。滑らかな肌の感触、硬い骨の感触が伝わりました。清美の熱い息が肌を舐めました。清美に近づきすぎ、視界が闇に覆われていきました。唇が柔らかいものに触れました。その途端、それは液体へと変わりました。

 僕は吸い込まれるように、清美に混じっていきました。

 僕が僕の頬の感触を感じました。感覚さえも一つになっていきました。

 清美が焦げ付くような熱さで僕を求めているのが分かりました。気持ちさえも一つになっていきました。

 何も見えない温かな闇の中、清美への愛を心の中で告げました。

 一瞬の間もなく、清美も僕を愛していると理解できました。

 そして、目が覚めました。

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