第15話 雨宮信生の独白(4)
翌朝、熱を出ていました。自室で寝込む僕に妹が興味を持ちました。部屋に入ってきてじろじろと眺めてきました。そして、冷たい笑い声を出しました。
「清美先輩が卒業するのがそんなにショック? ウケる」
目には侮蔑の色が浮かんでいました。話したくなくて無視しました。妹は構わず話かけてきました。
「何処が良いんだか。噂に聞く程悪い人じゃないのは分かってもさあ、微妙」
妹は清美と同じ高校でしたし、僕といる時に清美と話したことがありました。それでもその発言に何も知らない癖にと苛立ちました。反応を悟られないように布団で顔を隠しましたが、妹の口は止まりませんでした。
「見た目もさあ、ブスではないけど言うて良くも無くて、でも平凡じゃなくて尖ってる感じ。なんかさあ、俳優だったらヴィランでもやってそうじゃない? 真っ当なヒーローは無理って感じ。あたしの友達でも橘先輩派がいるけどよくわかんない。趣味悪くない? あたしは断然白水先輩のがいいなあ。アイドルでも十分いけるっしょ。ほんと、見た目は良いよねえ。中身が残念なのが惜し過ぎる」
てかさ、と妹は笑いが混じった声を出しました。
「普通の男だったら、あの中じゃ断然服部先輩っしょ。おっぱいでかいし、美人だし。たまんない筈じゃないの」
その後、沈黙がありました。問いかけのつもりだったのでしょうか。彼女はわざとらしく溜息を吐きました。そして、僕を蹴りつけました。力は入っていませんでした。痛くはありませんでしたが、不快でした。
「ホモとか……どんだけ恥晒せば済む訳?」
全く想定していなかった言葉に飛び起きました。呆然とする僕に舌打ちが投げられました。
「何、その顔。ウッッザ! 自分で分かってない? 清美先輩に会ってから、派手な頭して暗い顔しなくなって、傍から見ているだけで分かるくらいにあの人のことしか考えてなくて、挙句別れになると女々しく体調崩して、恋以外に何があんのよ。普通に友人のつもりなら、そっちの方がキモ過ぎる」
「……恋」
音に出すと、やけにしっくり来ました。先に言っておきますと、誤解でした。清美先輩に対する気持ちが恋愛感情とは呼べないことは、今は分かっています。僕の恋愛対象も女だという事も今は自覚しています。しかし、当時の僕は胸の中に渦巻く熱に恋愛感情というラベルを貼ってしまったのです。
妹は僕の心中を察したのか、キモいだ無理だと吐き捨てて部屋を出ていきました。
残された僕は布団に潜り込みました。
「先輩」
そう口にして、瞼を下ろしました。いつもの彼が浮かびました。よく笑い、ころころと表情を変えて優しいあの人。思い返せば、この瞬間、清美の嘘のことは頭から完全に飛んでいました。都合よい部分だけを切り取っていました。
「清美先輩」
呼び直すと、頭を撫でられた時の感触を思い出しました。それから手の感触から手を思い出しました。ごつごつとした男性的な手。自分のものよりも大きくて、皮も厚い手。余分な脂肪がない太い指が並んだ手。妄想でその手を頭から頬へと滑らせます。大事そうに僕の頬を包んでくれました。長い人差し指が顎をなぞりました。中指が首へと落ちた後、中指と人差し指が鎖骨をとんとんと叩きました。実際はされたことのない動作でしたが、その時には酷くリアルに思えました。服の中へと入りこんだ指が僕の凹凸を楽しむようにゆっくり降りていきました。自分が何をしているのか自覚しないまま、想像の手を下ろしていきます。清美のふふという笑い声の幻聴がしました。喉の奥で転がすような機嫌がいい時の笑い方です。臍に指が触れ、くにくにと弄びました。
そこまできて漸く自分の妄想が清美を汚していると気付きました。妄想を止め、頭を横に振りました。深呼吸をして、清美のことを考え直そうとしました。その為に名前を口にしました。
「清美先輩」
きよみ、という三音が喉を焼きました。
「清美」
呼び捨てにした途端、頭の中の枷が壊れるのを感じました。爽快感がありました。何度か繰り返し名前を口にしました。呟くたびに体は軽くなりました。実際に本人を前にして呼んでみたくなりました。清美はどのような反応をするだろうと想像しました。
妄想の中、清美は嬉しそうに受け入れてくれました。そんな想定しかできませんでした。清美はその時まで僕を拒絶したことはなかったから、許容する姿しか思い描けませんでした。僕は頭が悪いので、清美は何もかもを受け入れてくれて何もかも僕の思いのままにしてくれるに違いないと考えてしまいました。
――どうせ結ばれるのだ。何の遠慮がいるのだろう。そもそも、清美が僕に優しいのは清美だってその気があるってことだろう。
熱で浮かされた脳は思考を加速させました。
前を行く大きな背中を思い出しました。――触れたい。
夏に川で遊んだ時に見た裸足を思い出しました。――触れたい。
隣に座った時の脚の長さを思い出しました。――触れたい。
白水先輩とじゃれ合っていた時に見えた臍を思い出しました。――触れたい。
夏服の時の逞しい腕を思い出しました。――触れたい。
私服の時にだけ見える鎖骨を思い出しました。――触れたい。
そして、アイスを食べている時のことを思い出しました。二つ一組のチューブ型のアイスを一緒に食べました。清美が咥えようと口を開きました。整然と並ぶ白い歯に囲われた赤い舌が見えました。そして、アイスの縁を柔らかそうな唇が挟みました。一瞬の出来事です。その時までさして気にも留めたことのない光景です。しかし、その時はそれが非常に艶めかしいように感じました。
その唇の、歯の、舌の感触を僕に教えてくれないだろうか。
自分の唇を触りながら、頭の奥が熱さを増すのを覚えました。
キスというものを僕はしたことがありませんでした。清美も僕が知る限り恋人がいたことがありません。だから、清美も経験がない筈でした。僕にとっても、清美にとっての初めてのキスをしたくなりました。初めて、です。僕らが結ばれてそのまま関係が持続すれば、互いにとって唯一の恋人になるのです。それに気づいた瞬間、独占欲が湧きあがりました。
――清美だけのものになりたい。僕だけのものになってほしい。
願いは理不尽な怒りを湧き上がらせました。無防備に魅力的な箇所を露にする清美に対して、急に腹が立ったのです。秘すべきこと――正常な今は秘すことではないと勿論分かっていますが――を秘さない清美を僕が管理せねばならない。全てを曝け出していいのは恋人の僕に対していだけだ。それをあのじゃじゃ馬に分からせるのは、どうすれば良いか。
瞼を下ろして考えました。𠮟りつけたり、閉じ込めたり、傷つけたり……。恋愛の名の下に随分と酷いことを想像しました。その内、睡魔が襲ってきて眠りにつきました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます