第6話 雨宮信生の回想(1)
あの夜は、夢のようでした。清美先輩が五年ぶりに此処に帰って来てくれたのです。しかも、高校時代には経験できなかった居酒屋に集ってみたのです。皆は浮かれずにはいられませんでした。
南曇正美先輩は居酒屋の六人席に入るなり、清美先輩の隣を高校時代と同じように陣取りました。清美先輩の前には白水優大先輩が座りました。白水先輩の横は油谷晋也先輩で、僕は油谷先輩の隣に座りました。先輩の隣も座ろうと思えば座れましたが、既に心臓が煩かったためにそこに座りました。
「おいおい、人見知りかあ?」
油谷先輩が僕をからかうと、清美先輩がおいでおいでと手招きしました。高校時代から変わらない子供扱いに、頬が熱を持ちました。もう既に職を持った人間としては、大人だと認めてほしかったのです。
「此処からの方が、清美先輩の顔がよく見えるので」
半ば自棄になって言った言葉でした。しかし、後になって、清美先輩の表情がよく分かったこの席が貴重だったことに気付いたのです。
あの時まで僕らは緩やかな時間を楽しんでいました。僕以外は清美先輩に根掘り葉掘り五年間のことを聞いていました。チャットアプリでグループをつくっていましたが、この五年間はやはり各々一対一で清美先輩と話すことが多かったのです。誰かしら知らない話は沢山ありました。それに、聞いたことのある話でもその後の進展を知らないこともありました。そうした理由で、清美先輩が話す度に誰かが更に彼の話を強請ってしまいました。
清美先輩は自分のことを話すよりも、人の話を聞きたがっていました。でも、全員に酔いが回る頃には観念してました。元々よく話す人なので口が止まることはありませんでしたが、時たま「自分のこと長く話すのって何か嫌」というようなことを零していました。
僕は先輩たちの話に耳を傾けるのに精いっぱいでした。いえ、正確には、清美先輩の話を聞きながら彼を目に焼き付けるのに必死でした。
五年という歳月は大きいものに思えました。子供であった十代から大人である二十代へと跨る期間だったからというのもあるでしょう。先輩は僕の知っている先輩とは変わっていました。
分かりやすい変化として、髪を伸ばしてくくっていました。動くたびに揺れるそれは、柔らかな雰囲気を強化していました。最初はその髪型に若干驚きましたが、時間が経つにつれて似合っているように見えました。
体は何だか昔より完成されている気がしました。成長が早い人でしたので、あの頃から大人びた印象を受けていました。それでも、あの頃と違って大人になったんだ、とはっきりと感じました。多少は逞しくなっていましたが、それよりも何か余分なものが削がれていた感じがしました。
肌は以前より色が薄くなったように感じました。しかし、これはそう感じただけで、実際は変わっていないようにも思います。あの日、初めて知ったことですが、先輩はアルコールに強くない体質でした。そのため、ジョッキが一度空になる頃には顔が真っ赤になっていました。その肌に紅色が酷く映えるのです。まだ赤くない部分の肌の黄味がやけに薄く感じるのです。それを意識すると、こちらの酔いも加速する心地がしました。
清美先輩は酔うと一際明るくなりました。いつも低い笑いの沸点はますます低くなりました。白水先輩の冗談や南曇先輩の突飛な発言、油谷先輩の変に生真面目な言動にけらけらと笑い声をあげました。いや、何もかもが面白く感じているようにも見えました。僕と目があっただけで、ひゃっと肩を震わしたのですから。話す時の声もたまに上擦り、噛むこともありました。そうする度に白水先輩が誇張して真似しました。清美先輩はそれに対して唇を尖らしたり、「もー、優大はそうゆうことするんじゃよなあ」と拗ねてみせてたり、更に誇張して真似してみたりしました。不思議なことにどの反応も以前よりも子供っぽく無邪気に見えて、愛らしく感じました。いや、お酒に煽られて機嫌がよい先輩の全てに、僕は愛らしさを覚えていました。話す時によく動く長い指と柔らかそうな唇、きらきらとした表情、揺れる髪、ふわふわと弾む声、潤む瞳にそれを縁どる長い睫毛。酔ってぐらぐらとする頭で、それらを愛でていました。この時間ができるだけ長く続くよう願っていました。
しかし、貴方の夫――豊一さんがその幸せをぶち壊したのです。
豊一さんが来て真っ先に気付いたのは清美でした。丁度入口が見える席だったからでしょう、ドアの開く音がするとぴたりと口が止まりました。視線は僕らを飛び越え、ドアの方へと向けられてました。眉のあたりに力が入って、何かを推し量っているようでした。
「清美……?」
南曇先輩が怪訝そうに名前を呼びました。それで、清美ははっとして、南曇先輩に顔を向けました。
「いや、ごめん、何だっけ」
清美はあはと短く笑いました。何だよと言いながら、白水先輩が入口の方を見ようとしました。しかし、清美が袖を引っ張ってそれを止めました。
「何でもねえわい。見間違い」
清美はそれよりさと話をしようとしましたが、舌に呪いでもかかったように言葉はゆっくりと消えていきました。目はやはり僕らの後ろに向けられていました。完全に無言になった頃、流石に僕らも彼に気付かずにいられませんでした。
豊一さんは僕らの席に近付いて来ました。酒臭く、肌は真っ赤に染まっていました。その目はぼんやりと清美だけを見ていました。
「わあ、久しぶりじゃね。元気にしとった?」
清美が豊一さんを見上げ、わざとらしく人懐っこい笑みを見せました。豊一さんは舌打ちし、机を荒々しく打ちました。空気が冷えましたが、清美は取り繕うように笑っていました。
豊一さんは清美に苛々と言葉を吐き捨てました。
「答えろよ。姫子に惚れていたんだろ?」
清美の唇はきゅっとV字を描きました。困った時にするあの癖です。
「あっ、そっか。結婚したんだっけ。凄いなあ。高校からの仲じゃろ? 長いわい」
清美の声は温かでしたが、豊一さんは氷柱のような眼差しを向けました。
「何はぐらかしてんだよ」
火花を散らすような声に清美が眉を顰めました。
「別にそんなあ? てか、何で今更? やな感じがすんわあ」
清美がすっと目を細めると、豊一さんの頬が更に赤くなりました。
「はっきりしろよ。分かってんだからな」
「分かっとんなら言わんでもいいやろ」
瞬発的に返された言葉は今までと打って変わって冷ややかに響きました。豊一さんが短い不安定な声を上げ、乱雑に清美の胸倉を掴みました。清美が何かを言おうと口を開くと、豊一さんはそれを打ち消すように怒鳴りつけました。
「うるさい! 言えってんだから、言えよ! 馬鹿!」
清美はむっと口角を下げました。でも、それだけで、豊一さんのように怒った訳ではないようでした。寧ろ、隣の南曇先輩の方が怒りを露にして、射殺さんばかりに豊一さんを睨んでいました。僕の視界に入っていた油谷先輩の手も拳をつくっていました。白水先輩も柄にもなく押し黙っていて、相当に怒っていることが分かりました。けれども、豊一さんは僕らに何の警戒もしていませんでした。清美しか見えていないようでした。
張り詰めた空気の中、清美が素っ気なく話し出しました。
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