第5話 橘宗助と雨宮信生との邂逅

 誰かの激昂に思考がかき消される。聞いたことがあるような声だ。清美の名前が出た以上、声の主の相手は橘の誰かと話しているのだろう。そして、あの家で清美を追い詰めるような動きをする人間は二人しかいない。木々に隠れながら、その声へと近づく。

「楽しい訳ねえじゃろ。儂があいつを追い詰める訳ねえじゃろ?」

 特徴的な喋り方に体が一瞬にして冷える。宗助だ。

「勘違いすなや。あいつが選んだ道じゃ。儂は薦めてやっただけじゃけんのう、あいつの意思じゃ」

 その声は妙な笑いを含んでいた。彼の軽い声がこうも毒々しく響くことができるなんて思わなかった。木の蔭からおそるおそる伺うと、宗助の横顔が見えた。人を懐柔してきた爽やか笑みはそこにはない。煙草を咥える口は口角が上がっていた。けれども瞳は蝮のように冷ややかだった。

 宗助の前には青年がいた。背丈は私程で――つまりは百六十センチくらい――、灰色と白のストライプのオーバーサイズのTシャツに黒いスキニーパンツを身に着けている。腰までの黒髪は見事なまでのストレートで彼の僅かな動きでも機敏に揺れた。小さな顔には大きな双眸が繊細に置かれていた。声が太くなければ、女性と勘違いしたかもしれない。彼が食らいつくように宗助に言葉を返す。

「貴方みたいな人が薦めるだけで済みますか」

「お前なんぞに儂の何が分かるんや」

 宗助が反射的と思える速度で言葉を返した。彼は一度自分の口先から生じた白煙を目で追った。そして、煙草を指で挟んだ。そして、カーキ色の麻のズボンのポケットから携帯灰皿を取り出した。惜しげもなく煙草を処分し、ポケットにしまい込む。灰皿へと注がれていた目線がこちらに戻る。

「そうじゃな、儂はお前のことが分かるかもしれん。まあ、なあに、簡単なことよ」

 演じているかのように矢鱈と勿体ぶって一歩が踏み出された。ざりとサンダルが砂を挽いた音がその場の空気を切り替える。

「雨宮信生」

 青年がじりとたじろぐ。それが青年の名前だったらしい。

「お前みたいな父親に人生を用意された人間にゃあ、つまらねえよな」

 きゃっきゃっと宗助が甲高い笑い声を上げた。かつて子どものようで親しみやすいと思った声は、今は大事な何かが軋む音に聞こえた。

「折角親の支配から逃れた『先輩』がの、自分から親の言いなりになるなんてとんでもねえ。考えられんのう。失望もんじゃ。『先輩』だなんて慕えねえ。お前の髪が真っ青だった頃みたいにはもう清美を見れんのう。そりゃあ呼び捨てにもするってもんよ」

 かあっと雨宮の顔が赤くなる。私は漸く彼が誰だか分かったことで一気に彼の心に寄り添っていた。目の前のこの清美とよく似ている男は彼とは正反対なほど残酷だ。

「違う! 僕は先輩を」

「大変じゃなあ」

 宗助は清美を演じていた。眉を八の字にして、きゅっと口角に力を入れる。目はまっすぐに相手に向けられる。世界には二人しかいないような錯覚を起こしそうな程、優しい眼差しを向ける。声は驟雨のように柔らかく、相手の体に浸透していく。硝子の靴を拾い上げるようにすっとこちらの手を両手で包む。じんわりと男の温もりが指に移っていっているのだろう。

 ――手伝えることがあれば言ってな。

 清美ならばそう言っただろう。でも、目の前の男は別の言葉を口にする。

「可哀想」

 声の調子は清美の慈しみ深いそれを精巧に模倣していた。見ているだけで肌が粟立つ。雨宮がひっと息を引きつらせた。そして、何か言おうとしたのか、口を開いた。しかし、一音も出さずにすぐに閉じた。合わさった唇は色を失い、痙攣を起こし出した。

 数十秒程、男は雨宮を見つめていた。その後、宗助は飽きたというように唇を尖らせた。次の蹂躙の予感に身構える。

 宗助は右足を軸にしてくるりと私に正面を向けた。私が驚くと、宗助は幼児のような無垢な笑みを浮かべた。

「姫子ちゃんは相変わらず人見知りじゃなあ」

 のんびりとした声とは裏腹に、喉元に包丁が突き立てられたような感覚があった。全身が収縮する。

「ひめこ?」

 雨宮が目を丸くして私の名前を呼んだ。目立つ見た目で清美にまとわりついていた彼と違って、私は彼に知られる機会がなかった筈だ。

 ――清美が彼に恋愛相談でもしたのかしら。

 恐怖のあまり突飛な考えが頭をよぎる。冷静になれと自分を律していると、雨宮がずんずんと近づいてきた。

 宗助は雨宮の背中を眺めながら、けったいな、と呟いた。そして、軽く唸りながら伸びをした。その後は首をこきこきと左右に振り、右手を口の横に当てた。

「坊ちゃん、儂ゃ帰るでえ」

 先程とは打って変わって、いつも通りの飄々とした態度だった。雨宮は返事をせず、私が隠れた木の前で立ち尽くした。宗助がつまらなそうに踵を返したのが、彼の体越しに見えた。姿が完全に見えなくなった所で口笛が聞こえた。童謡の「あめふり」だ。空を見ると、白い雲がまばらに散らばっているだけで雨の気配がない。そもそも、六月といってもまだ梅雨は訪れていない。ふと三日前の夢を思い出した。何だか見透かされているようで気味が悪かった。

 足音も口笛も聞こえなくなった。安心して顔を雨宮に向けると、雨宮も私と同じ動作をしていた。視線がかち合う。気まずさを感じ、適当な言葉を言う。

「……雨、降りそうにないわね」

「そうですね。先輩、まだ慣れていないでしょうから、あちらも晴れていると良いのですが…」

 雨宮が恍惚とした微笑みを浮かべた。清美を余程慕っているらしい。彼も清美の居場所を教えようとはしないだろうが、何とか懐柔できないだろうか。同じ恐怖を味わったのだから、南曇よりかは分かり合えるかもしれない。さて、どう切り出すのが良いだろうか。そんなことを考えていると、いつの間にか彼が私をじっと見つめていたことに気付いた。

「その……お話したいことがあるんです。お時間よろしいですか?」

 彼が言葉と共に頬と耳を紅に染め上げた。それを隠すようにすぐに俯いてしまった。

「ええ、勿論。私も聞きたいことがあるし。でも、私に一体何を? あなたが私のことを知っているという事が意外なのだけれど」

 彼は一瞬きょとんと私を見つめ、そして、ああ、と俯いた。

「やはりご存じありませんか。……貴方は知るべきなのに」

 彼が目線を空にやる。清美のことを想っているのだろう。なら、あの時のことしかあるまい。

「七日のことね」

 彼が頷く。髪の艶でできた光の環がゆるやかに滑る。

「そうです。あの時、僕らも……今もなお地元に残っている清美先輩の高校時代の、その、友人たちもあの場にいたんです。僕は話すのが上手くないので、冗長になりますが聞いてください。貴方は先輩に寄り添う人間が見たあの日を知っておかねばならないのだから」

 私が頷くと、彼も頷き返した。そして、静かに深呼吸をしてから、唇を動かし始めた。



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