第7話 雨宮信生の回想(2)

「そうねえ。そういうこともあったよ。中学の時じゃけん、十年前とか一昔前とかそんなじゃね。でも、分かっとうが、そん時だけじゃ。今は全く」

 豊一さんの笑い声が清美さんの言葉を遮りました、何とも卑しく幼稚な笑い声でした。清美はきょとんとしていました。戸惑う清美を見て、豊一さんはにやあと口角を上げました。アリスの笑い猫が浮かべていそうな、不快極まりない笑顔でした。

「本ッ当馬鹿だよな、お前。何も手に入れられない。憐れだなあ」

 安っぽい挑発に清美さんが、もう、と籠った声を上げました。

「豊一はさ、もっと素直になるべきじゃよね。昔から言っとるけどさあ。今は特に簡単に言ってほしいわ。随分話してないけん、前よりも意味がとりにくいんじゃよ。何が言いたいん?」

 清美の窘める言い方に、二人の築いてきた関係が見えた気がして不愉快でした。豊一さんがふんと鼻で笑いました。その反応がよりいっそう僕らに疎外感を与えました。

「お前が俺よりもずうっと下でせいせいしてんだよ」

「まあた意地悪言って……飽きへんの?」

 清美さんが目を細めて呆れてみせると、豊一さんがひくっと目の下を痙攣させました。

「本心だ。本心なんだよ」

 豊一さんが清美に顔を近づけました。鼻先が触れそうなほど近くでした。清美は平然としていました。この瞬間までは。

「俺はな。清美。お前が嫌いなんだよ」

 清美さんが息を詰まらせました。閉じた唇は横顔の輪郭を硬くしました。強張った顎から首筋へと流れるラインは優美な曲線を描いていました。豊一さんが胸倉を掴む手が力を籠めると、髪がゆらと揺れました。情報を更に求めるように見開かれた目は硝子細工のようで、今にも壊れてしまいそうな気がしました。その目と頬の境界を示す下睫毛は普段より主張的で、中性的な印象を与えました。はっきりとした二重瞼の上を行く眉は、他と同様に強張っていましたが、美しさを削ぐような皺を刻んでいませんでした。

 その表情は父親由来の遺伝子とは別のものを浮き彫りにしていました。普段は目立たない、繊細でたおやかな部分を痛々しいほど表出させていました。傍から見ていた僕でさえ息を呑んだその姿は、豊一さんの厭らしい心を存分に満たしたようでした。

 豊一さんの顔の筋肉は弛緩しました。ハハッと切れの良い笑い声を上げました。清美の胸倉を離し、代わりに彼のジョッキを掴みました。そして、半分ほど入っていたビールを飲み干し、乱暴に机に置きました。泡のついた薄い唇を手の甲で撫でつけ、またにやにやと笑みを浮かべました。清美はその動作を唖然と眺めていました。そして、豊一さんと視線がかち合うと、ぱちぱちと二回瞬きました。

「分かんなかったの? お前さあ、オベンキョウはできる割に人様の心の機微に対しては大雑把に馬鹿だよな。これで嫌われてないと思ってただなんてなあ。ガキじゃあるまいし……。いや、ガキにも失礼だな。物心つけば分かることだよ」

 そんな筈はないのです。貴方も分かっているでしょうが、清美程人を思い遣ってくれる人は希少です。豊一さんだって分かっている筈なのに、妙な腐し方をするのです。それだけでも十分嫌でしたが、あの人は馬鹿にしきったように清美の頭をぽんぽんと撫でてみせたのでした。豊一さんの手の影響で、黒髪が、あの、母親に似て色素が若干薄い柔らかな髪がさらさらと表情を変えました。触るなと叫びそうになったのを必死に耐えました。清美本人が怒ってもおらずにただ豊一さんにされるがままだったのです。僕が口を出す訳にはいきませんでした。そう自分に言い聞かせて唇を噛みました。

 大人しく自分を観察する清美に豊一さんの気が大きくなっているのが分かりました。

「まあ、お前でも少しは考えられるようになるだろうよ。可哀想だよなあ、お前。あーんなに逃げ回ってたくせにさ、此処に戻ってきたってことはお前ヤクザになるんだろ。親父の言う通りに。そしたら、もうそんな平和ボケしてられねえよなあ?」

 僕は、いや、きっと清美と豊一さんを除いた四人全員は雷に打たれたような衝撃を感じたに違いありません。清美が長年苦しめられていた父との不和の原因が、清美が頑なに隠し続けていた秘密が突如暴かれたのですから。

 僕らは薄々感づいていました。清美が此処に戻ってきたということは、父親との問題が解決したからだと悟っていました。そして、それが、清美が折れることでなされたことは何となく分かっていました。でも、誰も口にしませんでした。上手く事が運んで清美の納得のいく形で解決したという奇跡を祈っていたのです。そう、誰もが清美の幸せを願っていました。清美の口から秘密を打ち明けられる程踏み込んだ仲にはなれなくても。

 なのに、豊一さんは違った。清美にそこまで信頼されていながら、裏切ったのです。清美を傷つける為だけに秘密を僕らの前で見せびらかしたのです。許される行為ではありません。

 僕らは全員豊一さんに殺意を向けていました。清美はそれに気づいたのか、無理に笑みを作って僕らに目を向けました。その場の空気を換えようとしているのは、誰から見ても明らかでした。でも、豊一さんは別の意味でとったようでした。苛立ちながら、清美の髪を掴み、引き寄せました。

「痛っ」

 清美が顔を歪め、豊一さんの手を掴みました。しかし、豊一さんは放しませんでした。それどころか、清美の耳に口を寄せました。そして、ふーっと荒い息を吐きました。吹きかけるというより、息継ぎのように見えました。不快な感触があったのか、清美が一回堅く目を瞑り、身を捩らせてから強張らせました。その様子に豊一さんが満足そうに目を細めました。そして、囁くように口を動かしました。そうするならば清美にだけ聞こえるように言えばいいのに、わざと僕らにも聞かせるような音量で話したのです。

「あんなに嫌がっていたのにさ。あんなに女みたいにピーピー泣いて嫌がってたのにさあ。結局父親の言いなりになって表に出られなくなるってのは、お前にはお似合いの末路だよなあ。どんな気分だ?」

「ああ?」

 カチッと空気が変わるのを肌で感じました。清美の目に攻撃的で冷たい光が宿りました。そして、きっと横目で豊一さんを睨みつけました。

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