第8話 雨宮信生の回想(3)

「何だよ、その反応は……」

 豊一さんは払うようにして清美の髪を手放しました。及び腰になっていました。清美は解れた頭をそのままに豊一さんに顔を向けました。豊一さんはずりと半歩後ずさりしました。

「あんたなあ、いい加減に」「帰れドチビ!」

 白水先輩の声と彼が立ち上がって椅子が倒れた音が清美の声を掻き消しました。誰もが驚く中、白水先輩が豊一さんに殴り掛かりました。

 清美が身を乗り出して、白水先輩の腕を掴んで止めます。

「え、何しとんの?」

 清美はただただ驚いていました。豊一さんは真っ青になって、尻餅をついていました。白水先輩は顔が真っ赤で、その目には涙がうっすらと浮かんでいました。

「何って、むかつくだろうがよ!」

 白水先輩ががなると、清美はしらっと返しました。その手は掴んだ腕をぺちぺちと叩きました。

「だからって暴力はいかんよ。それに、そんな怒らんでもいいじゃろ」

「怒って当然! 清美もキレてただろ! 何だ、急にこう、その、スンッって感じ止めろ! 何で俺の方がキレてんだよ!」

「あれ……、ほじゃね、怒ってたね。ありゃ? えー? あー……ほりゃ、怒ってた時に自分よりも怒ってる人見たら、ひかん?」

「ひくな!」

 空気が完全に緩んでいました。油谷先輩が白水先輩の椅子を立てると、白水先輩は気づいて座りました。

 清美が豊一さんに手を差し伸べます。豊一さんは当たり前だと言うように手を掴んで立ち上がりました。そして、また清美に言葉を投げました。

「お前、強がってるだろ」

「いかんの?」

 豊一さんが返事代わりに舌打ちすると、清美は彼を暫く見つめました。豊一さんも目をそらしませんでしたが、何処か怯えているように見えました。豊一さんが肩を震わすと、清美が口を開きました。

「……悪かったわ」

 清美の予想外の言葉に空気が張り詰めました。豊一さんさえも驚愕するなか、清美は淡々と続けました。

「俺、あんたにも迷惑かけてきたんじゃろうな。考えたことなかったけど、そりゃかけとうよな。嫌われて当然じゃ」

 清美が一瞬目を伏せました。豊一さんは唇を噛みました。

「今までごめんな」

 清美は寂しげに笑ってみせました。声は軽く響いていました。形だけは謝罪をなしていましたが、それよりも突き放したような感覚がありました。

 豊一さんは目を白黒させた後、清美を嫌悪感たっぷりに睨みつけました。

「情けねえ奴」

 その声は嘲りに満ちていました。その言葉を最後に去る際の足取りも妙に荒々しく見えました。

 豊一さんがドアを閉めた音がすると、油谷先輩が自分の子供の話を始めました。それから最後まで豊一さんのことが話題に上がることはありませんでした。折角の再会の時間を不快な話題で浪費したくない。そういう気持ちが僕らにはあって避けたんだと思います。でも、その思い以上に清美が何もなかったかのように振舞っているから、というのが一番大きな理由でした。清美がそうする以上、言及しないのが彼の為である。そうは分かっていましたが、僕はこのまま無かったことにはできませんでした。

 清美は人に苦しみを言わない人です。嫌なことは嫌だと言うくせに、他人が苦しんでいるのを見過ごさないくせに、自分の暗い気持ちを言葉にしない。素直な性格なのに、自分の痛みを隠すのが異様に上手い。精神的にも強い人だから、耐えきってしまう。そういうことを嫌という程、僕は知ってました。知っていたからこそ、助けたかったのです。新しい環境に行ってしまう前に、心の重荷を少しでも下ろして欲しかったのです。

「豊一さんとのこと、清美は辛くないんですか?」

 漸くそう言えたのは、帰っている時でした。その場には僕と清美の他に白水先輩がいました。ふざけあって歩いていた清美と彼は足を止め、きょとんと数歩後ろにいた僕を見ました。白水先輩は怒りを思い出したかのように眉を顰めました。清美は戸惑いを見せました。

「正直、どうでもええわ。わざわざ考えたくねえし」

 素っ気ない返事に、胸のあたりがぐちゃぐちゃとしました。白水先輩は清美の反応が癇に障ったらしく、奇声を上げて手足をばたばたと動かしました。

「何それ⁉ キレといて⁉ おっそくにキレといてえ⁉ 何その言い草⁉ スンッってされて怒りの行き場を無くした俺の気持ち考えてみいよ! ばーかばーか!」

 白水先輩は舌を出し、清美を挑発しました。むうと清美が唇を尖らせました。

「あんたには、まあ、悪かったよ。でもさあ、いや、なあ、何というか、まあー」

 清美が腕を組み、だあと短く唸りました。

「何ていうかね、俺から関わらんかったら、もうあれで仕舞いじゃろ? ほうじゃけん、何も考えんでも良くね?」

 なっ、と清美が短く同意を求めましたが、僕は突っぱねました。

「駄目ですよ。僕らは豊一さんを許せないんです。清美さんが心配なんです。あんなに苦しそうな、見ている方の胸が痛むような反応してたじゃないですか。なのに、考えずにいれるないじゃないですか。隠して堪えているんでしょう? お父さんとのことみたいに思い悩んでいるんじゃないかと、苦しい気持ちを必死に隠しているんじゃないかと気が気でないんです」

「別に何も隠しとらんよー? あんたが思っとるほど複雑な人間ちゃうし」

 突き放したような言い方でした。一瞬眇められた瞳に喉が熱を持ちました。

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