第2話 森沢姫子の夢(2)
そこで目が覚めた。
人肌ほどの温度の湯に包まれているような感覚があった。
夢の続きが見たい、と布団に包まり直す。そして寝返りをうって、完全に覚醒した。
私の隣にはいつも通り夫が眠っていた。
清美よりも小さく細い体。清美よりも平たい横顔。清美よりも黒い肌。清美と違って縮れた髪。清美よりも神経質な性分が現れたような規則正しい寝息。清美よりも横暴な性質が成す大の字の体勢。
夫の全てに違和感を覚えた。
いや、夫だけでなかった。私が動くたびに小言を挟む義母も、顎で指図する寡黙な義父も、無駄に力のいる庖丁も、使い込まれて変色したまな板も、音の大きい洗濯機も、粉っぽい洗濯ばさみも、気取ったデザインの掃除機も、日に焼けた畳も、色褪せたフローリングも、飾り気のない玄関も、義母の趣味に溢れた庭も、夫がつまらなそうに手入れする畑も、生活の全てに違和感があった。
夢はこちらで、本当の現実が夢だと思ったあちらではないのか? そんな疑問を自分に問いかけ続けながらまた夜を迎えた。
その日に見た夢は中学時代のことだった。
清美と一緒に登校するあの頃の日常風景。昨夜見たドラマの話をしていた。
そのドラマは少女漫画原作で、私が清美に薦めたものだ。同性の友達が少ない私はよく清美と好きなものを共有しようとしていた。清美は全部を受け入れてくれる訳ではなかったが、ドラマであれば大分見てはくれた。ドラマが放送された次の日の朝はその話をするのがお決まりだった。夫の影響でドラマも漫画ももう楽しめなくなった現在から見れば不思議な思い出だった。
「黒井とくっつくっていうのは何となく分かるんじゃが、俺は白山と幸せになってほしいんよ」
「黒井くんの方が格好いいわい」
「俺様系じゃん?」
「不器用で、クールなところが良いんよ!」
「白山のが優しいじゃん。言うことも分かりやすいよ」
「黒井くんはね、多くを語らないのが魅力なんよ」
「誤解生みまくりで灰子が悩むんじゃい」
「いつも解決して、黒井くんと愛を深めとる!」
「分かりやすいイベントが起きやすいってことじゃろ。白山は頑張ってるのに損じゃ可哀想じゃ」
「白山くん、優しいだけでぱっとしないんだもん。スリルとかスパイスとかがないんよ」
「長く付き合う上ではそういう人間のが平穏じゃよ? きっと」
「そんなのつまんない!」
「黒井とくっついたら、振り回されてばかりで灰子が疲れそうで見てられん!」
「何でヒロインの親目線なん?」
過去のやり取りを聞きながら、私は清美を凝視していた。当時は友達としてしか見てなかったが、今見ると素直に惹かれるものがあった。背が高く余分な脂肪もなく脚も長いから影の形さえ格好が良い。歩調を自然に合わせてくれる紳士然とした所がある。私の考えを私ごと否定するようなことはない。それに何より、表情が良い。ころころ変わる表情は愛嬌がある。この時の清美は特に幼さが強く残って愛らしい。普段は父親にそっくりだとしか思わなかったが、悩む時等たまに目尻あたりに母親の面影を見る。それが何とも柔和で、抱きしめられたくなる。
この時点でも私を好いているのなら、告白してくれないだろうか。私と愛し合って欲しい。その広い胸で私を包んでほしい。そう願ったが、叶わなかった。
目覚めても現実への違和感は止まらない。一日中、清美のことを考えていた。布団に戻った頃には思考が爆発寸前だった。小学校の時に海水浴に行った時に見た背中のほくろを強烈に思い出していた。
清美の背中には五芒星のように五つのほくろが並んでいた。逞しく広くなった今の背中にもそれはあるのだろうか。
子どもの時に無邪気にそれをなぞった。今もそれがしたくて堪らなかった。くすぐったいと笑う清美を見たかった。夢で叶わないだろうかと瞼をおろした。それが昨夜のことだった。
現れたのは、街の中の風景だった。私は歩道に立っていた。車道を挟んで向かい側の歩道に清美がいた。
そちらに行こうと横断歩道を探していると、誰かが清美に向かっているのが見えた。清美より少し低い程度の背、額の見える短い前髪に垂れ目。軽い足取りからも陽気さが伝わる。白水優大。中学の時に清美とそこそこ仲が良かった。高校生になって清美が人から避けられるようになった時から、よく一緒にいるようになった。常にふざけたような態度の人で、私は苦手だった。
白水が清美の隣に行くと、二人は顔を見合わせて笑った。並んで見ると、清美の顔付きには童顔の傾向があることに気付かされた。
二人を眺めていると、男二人が来た。一人は長髪をベビーブルーに染めた小柄な人。もう一人は黒髪を後ろに流すように固めて短く口髭を蓄えていた。二人とも高校時代に見たことはあるが名前が分からない。
二人が出るということは、これは高校時代の夢なのだろうか。
口髭が清美と白水の肩を後ろから叩いた。二人が振り向くと、口髭が大袈裟な身振りをつけながら話し出した。白水が顔の横で両手をひらひらさせて応えた。清美が後ろ手に組んで半歩下がり舌を出した。ベビーブルーが清美の腕を弱々しく掴む。清美がベビーブルーに顔を向けて、頭をぽんぽんと撫でた。それから腰を折り、言い聞かせていた。
そんな清美の背中を叩く女がいた。南曇正美だ。彼女はクォーターで金髪碧眼に長身という目立つ容姿をしている。髪はベリーショート、平らな体つきで服も男性的だ。おまけに歩幅が広い。何処からどう見ても男のようだったが、清美と交際していた噂があった。実際、その当時、二人だけで遊んでいるところを何度も見ていた。何人かでいる時もだいだい隣にいた。今考えると信じ難いことだが、当時はあっさりと信じてしまっていた。それだけ清美との間に隔たりがあった。
南曇は一緒に来た女友達の服部翔子を背に清美に何かを言った。清美が何かを応えると、南曇が清美の脚に軽く膝を当てた。そして、がやがやと彼等は歩き出した。
清美は私に気付かなかった。清美を呼ぼうとしたところで目が覚めた。
寂しさが身を包んでいた。高校時代のことを思うと、その時点での清美との距離が辛く感じた。あの時から清美は私に対して消極的になった。
やり直したい。仲が良かったまま、恋人になって結婚したい。
そう強く願わずにはいられなかった。勿論、無理だということは理解していた。私の人生はこのままこの家に閉じ込められて終えるだけだ。必死に自分に言い聞かせた。でも、視界の端に夫の姿を捉えた途端、気持ちが抑えられなくなった。
会いに行こう。会いに行って愛してもらおう。――そんな風に思考がどうしようもなく傾いて決まっていく。決まれば実行するだけだ。朝の家事を済ませたら、買い物と偽って家を飛び出した。
この三日間、清美が私に会いに来ないのは、もう此処にはいないということだろう。居場所を知るためには誰かに聞かなければならない。やるべきことが見えると、晴れ晴れとした気分になった。
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