橙の夢――優等生かつ不良で幼馴染または先輩だった橘清美の帰郷による影響
虎山八狐
第1話 森沢姫子の夢(1)
あの日から、橘清美の夢を見るようになった。
橘清美は幼馴染の男の子だ。
同い年で物心付いた時には既に仲がよかった。高校初めまでには毎日のように話していた。
私はいつも清美を見上げて、清美は頭を垂れていた。いつの時分も人目を引くほどに清美の背が高かったからだ。体格は背に見合うほどがっしりとしていて、力も強かった。荷物が重い時はよく持ってくれた。
小学校低学年ぐらいまでは手をひいてもらうことも少なくなかった。自分より大きく温かな手にいつも安心感を覚えていた。高校に入学したばかりの頃、久しぶりに手に触れた時にそれが記憶よりも大きく厚くなっていることが自分の中で引っ掛かり続けていた。大人になっていく清美に驚いたのだろう、と最近まで思い込んでいた。
でも、もっと前に清美の成長をより強く感じた出来事があった。中学三年の声変わりの時のことだ。
元々、清美の声は同年代の少年の中では高めだった。その上、溌溂と話すので、妙に軽く響いた。それが変声期を迎えると、低さと重さと太さを得た。私にとっては大きな変化だった。心細ささえ感じた。でも、清美にとってはそうではなかった。
「あんまり変わんねえんじゃね。今までと地続きって感じが強いというか」
そう溢し、清美は短く笑った。
「大人になるってこと自体がこういうことだったりして」
随分と冗談めかした言い方だった。当時もそう思っていたのに、それが真理のようにも聞こえていた。そして、そんな風に世界が捉えられる清美が大人びて見えていた。
どうしてそう思ったのか。今では分かる。私は清美の言葉を信じたかったのだ。あの時のまま、清美が隣にいて手を差し伸べてくれる環境のまま、大人になりたかったのだ。
でも、叶わなかった。高校入学後暫くして清美と縁が切れた。数度話す機会はあったが、それだけだ。高校卒業後、清美は行方を眩ました。それ以来清美は私の隣どころか、この地を踏むことさえなかった。――あの日までは。
「姫子」
私をそう呼ぶ清美の声が秘めていたものを知っていれば、こうはならなかった。何故、私は気づいてあげられなかったのだろう。
すべてを知ったのはあの日だった。高校入学後から六年後、今から三日前のあの日。
寿観二十九年六月七日。
その日の夜、夫の豊一が酔っ払って帰ってきた。玄関まで迎えに行くと、夫は熱に浮かされたような目を向けてきた。
「清美が帰ってきた」
夫はそう呟き、げらげらと笑った。
夫の口から清美の名前が出たことにまず驚いた。付き合った当初、高校生だった時から夫は清美のことを話題にすることさえ避けていたからだ。
夫の手がべたべたと私の体を撫で回す。愛情というより所有欲が感じられて嫌だった。
「清美さ、お前に惚れていたんだとさ」
頭が真っ白になった。
「気味が悪いよな」
同意を求める言葉を否定したかった。でも、否定してしまうと、自分の何かが崩れる気がして声が出せなかった。そうしてただ立ち竦んだ。
そんな私を見て夫は歪んだ笑みを浮かべた。
その日、夢を見た。
私は苗を植える前の田圃の真ん中に座り込んでいた。泥の嫌な感触が足を捉え、熱を奪っていた。身につけていた白いワンピースも泥に染まっていた。
泣きたかった。何もかもが上手くいってない気がして、息が苦しかった。
「姫子」
投げかけられた言葉に顔を上げると、田圃の先に清美がいた。顔はよく見えないが、心配してくれてるような気配を感じた。その温かさに涙が溢れた。
「大丈夫?」
清美の声に答えようと口を開くが、嗚咽が喉に迫って言葉にならなかった。
清美が首を傾げ、躊躇いなく田に足を沈めた。紺色のスニーカーが黄土色に染まる。白いジーンズが端から泥に塗れる。清美はそれを気にする素振りもなく、私の前にしゃがみこんだ。
「怪我しとん?」
呼応するように足がじくりと傷んだ。まるで茨が絡み付いているようだった。
痛みに力んでしまうと、清美の眉が八の字になった。
「立てる?」
差し出された手を掴んだ。けれど、足は動かなかった。首を横に振ると、涙が泥へ落ちた。
「そっか。じゃあ、抱えるな」
清美が私を軽々と抱き上げた。橙色のシャツも汚れてしまったが、気にする素振りもなかった。それどころか、私と目が合うと小さな笑みを浮かべた。
あまりにも容易く田圃をぬけた。清美の靴が草に十分に拭われた頃、空の青さに気付いた。
「綺麗な空」
そう呟くと、清美は嬉しそうに同意の声を上げた。
「久しぶりの青空じゃけん、テンション上がるよな」
そうして清美と他愛のない会話を始めた。
清美の喋り方は独特の訛りがある。私と同じく地元の愛媛のものと清美の父親のものが混じっている。清美の父親の橘宗介――旧姓は確か鵜塚だったか――は本人曰く広島と京都の方言が混じっているらしい。兎に角、清美の喋りはやけに耳に馴染む部分と不思議に聞こえる部分がある。
小学校高学年の時、清美とも私とも幼馴染である夫の豊一が方言を嫌った。私たちも影響されて三人で標準語ゴッコをした。でも、清美が一番に音をあげた。
「敬語喋ろう思ったらいけんこともないんじゃよ? でも普通に標準語喋ろうとしたら言葉が出てこん!」
ぐににと悔しそうにする清美を夫は笑っていた。
「お前は普段煩いから丁度いいじゃないか」
意地悪、と清美が舌を出した。私も真似して、意地悪と言った。それぐらいからその遊びをやめた。けれども、高校の時に夫と付き合うようになり、また標準語の練習を始めた。今でも方言を控えるようになった。
だからか、夢の中の清美の喋りは妙な新鮮さと懐かしさがあった。そういう飾らないところに清美の魅力を感じた。恋愛に刺激を求めていた青春時代には気づけなかった。
私を大事に抱える腕もそうだった。力強く、まるで私の為に誂えたかのようだった。友達としてしか見ていなかったから、この腕が素敵だとは思わなかった。
清美の歩く速度と体温を感じながら、夢ならではの突飛な思い込みが生じていった。
――そうか。私は清美と愛し合って結婚していたんだ。
「お義父さんは私がいなくなって心配してた?」
私の問に清美が頷いた。
「宗助だけじゃなくて、伯父さんも伯母さんもな」
大騒ぎじゃ、と清美は続ける。
義父と義伯父の夫婦も私を探してくれてるらしい。義伯父は私の実家に連絡を取り、いないと知って青ざめたという。義伯母は義伯父を慰めているうちに、私が川にでも流されたのではと想像して焦ったそうだ。義父は気分転換だろうと言い、私が倉敷を舞台にした漫画にはまっていたことを思い出したらしい。
「見つからなかったら、倉敷まで行ってたかもしれんわ」
けらけらと清美が笑った。
「清美は心配してくれなかった?」
「分かっとる癖にい」
もー、と清美が私を抱え直した。
「ちゃんと言ってくれないと不安よ」
「確かめるために怪我までしたん? 迷惑じゃなあ」
「そうじゃないけど……」
私が俯くと、清美は無言のまま数歩進んで立ち止まった。
「気が気じゃなかったわい」
温かい言葉が降ってきて、清美を見上げた。清美は眉間に皺を刻み、私を見つめていた。
「スマホに電話したら家の中で鳴るし、しかも悲恋の曲だし。思いつめていたんかななんて考えてまうわ、そりゃあ」
「別にあれは好きなドラマの曲ってだけで」
「分かっとるよ。分かっとっても悲観的になったんじゃ」
しかも、と続けて清美が歩き出した。
「見つけたら連絡しよねって言って皆で探しに出たのに、スマホ忘れたわ。俺も混乱してたんじゃね。やじゃねえ」
清美が苦笑いした。そして、足を速めた。
「はよ帰ろ」
子どもの時と何一つ変わらない調子で清美は言った。それだけのことなのに胸が熱くなるほど愛おしかった。自然と体が動いた。清美が驚いてまた立ち止まる。
清美の肩に手を起き、上半身を捻り起こす。柔らかで真っ直ぐな前髪を掻き分け、露となった白い額に唇を落とす。
「くすぐったい」
清美がはにかむのを見て、唇を重ね合わせた。
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