第11話 雨宮信生の質問

「いかがでしょうか」

 彼がそう言って、漸く話が終わったことに気付いた。話す前と比べて随分強気な様子で、私を堂々と見ていた。そうね、と相槌を打って時間を稼ぐ。視線を足元にやり、腕を組んで口元に手をやって見せる。

 話はちゃんと聞いていた。だから、模範解答は分かる。でも、感情が追い付いていなかった。

 清美が私に確かに恋をしていた。

 その事実に立ち止まってしまっていた。夫以外から聞かされると、妙に現実味があった。事実とは分かっていたつもりだが、衝撃を受けて頭が上手く動かせない。どうしても浮かれてしまう。

 目の前の雨宮は大きな目で見つめて返事を待っている。

 唇を動かして、なるべく感情的に声を震わせて回答を告げる。

「夫は随分と非道いことをしたのね……」

 雨宮の話によれば、清美は私に対して消極的だった。ただ、夫の暴力に耐えた。

「許せないわ」

 清美らしい行動だ。

「清美は優しいから、あの人を庇うようなことをしてしまったのでしょうね」

 可愛い人。慰めてあげたい。

「傷付いているに違いないわ……」

 夫に引っ張られた髪を梳かしてやりたい。あの癖のない綺麗な髪に触れたい。

「心配ね」

 今は伸ばしているというが、どれ程の長さだろうか。何となく胸が隠れる程度な気がする。子どもの頃よりも落ち着いた雰囲気になっているだろう。想像したこともなかった姿が不思議としっくりとくる。

「思い詰めていないかしら」

 耳より少し上で結って、後ろ髪は素直に重力に従って直線を描いているんだろう。清美が動くたびに揺れて、光に透けて樺色の表情を見せるのだろう。

「夫のことが無くても大変な状況よね」

 想像の中で、清美を椅子に座らせた。ゆっくりと髪ゴムを解く。さらさらと髪が流れ、くすぐったい感触が手に広がる。

「誰か頼れる人がいれば良いんでしょうけど」

 痛い思いをさせないように恐る恐るつむじ辺りから櫛を通す。髪は抵抗もなく櫛を受け入れる。

「きっとすぐに信頼できないような人ばかりなんでしょうね。そういう世界よね」

 うなじを通り過ぎた時、首の長さに息を呑む。

「どうしてそんな目に遭わなければならないのかしら……」

 胸が締め付けられて焦って梳かす。手の急な動きに合わせて髪が揺れる。

「真っ直ぐに生きてきたでしょうに」

 堪らなくなって櫛を放り出して、髪に手を入れる。そして、頸切痕の真後ろあたりに触れる。そこに五芒星の頂点がある筈だった。

「生まれだけの問題でしょう……」

 清美が左向きに振り向く。髪は背中を撫で、肩にかかった一房が鎖骨をなぞって胸へと落ちる。

「そう、生まれだけの問題よ。それを論うだなんて」

 大きな口がにんまりと弧を描く。目は細められ、優艶な趣を見せる。

「人道に悖ることだわ」

 ごつごつとした手が私の頬を撫でる。硝子の靴でも扱うかのような繊細な手付き。長い指が頬を通り過ぎて髪に触れた。

 それで、私は自分も髪が長いことに気付いた。

 高校の時以来、夫――豊一の好みに合わせて短く、肩につく程度に切ってしまっていた。それまでは伸ばしていたのに。

 清美の隣が当たり前だった頃は、ずっと髪は長かった。

 いつもはお下げだったけれど、学校の日でも早起き出来れば他の髪型にした。清美は無邪気に褒めてくれた。苦労してやったのに似合ってなかった髪型でも、清美が絶対良い所を見つけてくれた。それだけでその日は最後まで機嫌が良かった。自分でも上手くできたという朝は、例えそれがいつものお下げであっても、清美相手に胸を張った。私が嬉しいと清美も嬉しそうだった。雑誌に載っていたヘアアレンジがどうしてもできなくて、器用な清美に手伝ってもらったこともあった。一緒に買い物に行って髪飾りを買う時に悩んだ時は清美に相談した。異性だから困っただろうに、嫌な顔一つせず聞いてくれた。

 毎晩時間をかけて大事に手入れをしていた。

 新しい服を買う時は、どんな髪型が似合うかも考えた。

 ドラマや映画で憧れた人の髪型に似せたこともあった。

 全部、手放してしまった幸福だ。

「あの人は平気で人を傷つけるのよ。でも、周囲が、清美が咎めないから、今までそのままにされてきたのよ。あの人自身の為にも罰を受けるべきだわ」

「貴方はどうしたいんですか」

 苛立ったのを隠しもしない声だった。驚いて顔を見れば、平然としている。ただ、目が、真っ直ぐにこちらに向けられた瞳孔がやけに黒々として見えた。ぽっかりと底のない穴のようであり、私をそこに押し込めようとしている気がした。

「貴方は清美に何をしてあげたいんですか」

 キヨミという音が成った時、再び彼の頬が紅潮した。眉間に皺が刻まれた。あからさまに敵意が向けられ、肌がひりつく。

 慎重かつ正直に言葉を選ぶ。

「会いたいわ。兎に角話がしたい」

 彼は答えず、ねっとりと私を眺めていた。促された気がして、言葉を重ねる。

「清美が大変なことになっているからこそ、支えてあげたいのよ」

「今更ですね」

 彼が鼻で笑って、視線を逸らした。

 今更、という言葉をつい鸚鵡返ししてしまった。今更、何だろう。今の状況では馬鹿らしい考えだ、という意味ではあるだろう。どうして彼は今の状況を考えるのか。

 ――もしかして、私の思いに気付いているのではないのか?

 その予感は異様に納得できた。

 黙ってしまった私に再びあの穴が向けられた。冷たいものが全身を舐めていく。見透かされている。確信していく。出まかせの言葉など通用しない。目の前の彼は私が思っている以上に私を知っている。

「そうね。私はもう豊一のものになってしまった。でも、勿論ちゃんと始末をつけるわ」

 彼は目を見開き、体を硬直させた。

 完全に予想外という反応だった。

 血の気が一気に引く。後悔と絶望感が一気に押し寄せ、目眩を起こした。取り繕らなればいけないが、言葉が出てこない。それどころか、息さえ上手くできない。

 ただ、無言で見つめ合った。瞬きは許されない。

 彼の目尻にじわりと涙が滲んだ。短い吐息が続き、泣いてしまうのかと思った。しかし、唇を噛んで耐えていた。咀嚼しようとしているのか、何度も唇に歯を突き立てた。小さな顎が小刻みに揺れた。その動作のうちに腕が組まれた。男性的なポーズだが、雄々しさはなく閉鎖的な印象を受けた。

 下品なまでに白い昼の光が彼の眉間に刻まれていく皺を際立たせる。

 冷ややかな眼差し。噛まれて歪む唇。腕を組み、半歩下がった左足へと重心が置かれた姿勢。彼の全てが嫌悪を訴えていた。

「清美をものにしようとしているんですか」

 不躾な言い方に少し苛々とした。それを表に出さないように、吐露してしまった気持ちを再び音にする。

「清美と一緒になりたいわ」

 彼の目の下が痙攣した。

「……貴方は分かっていない」

 だから、と続けながら、腕が下ろされた。そして、地面に向けて拳がつくられた。爪が指に食い込んでいると分かる程に力が込められていた。

「僕の、僕と清美の話を聞いてください」

 私は警戒していた。当然だ。何処もかしこも強張り、返事なんてできない。それでも、彼は話始めた。

 私に向けられた双眸は、私を見ていない。

 それに気づいた時には彼の言葉の檻から抜け出せなくなっていた。


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