第21話 森沢姫子の記憶(2)
ぽんかんが死んだ日の帰り道。二月中頃の真っ赤な空の下、二人、無言で歩いていた。
清美は朝から上の空だった。話せば曖昧な返事をした。自分から話すこともなかった。普段は楽しげにして口角が上がっていることが多いが、その時は唇が力なく結ばれていた。視線も上手く合わなかった。
その癖、ぽんかんの話は一切しなかった。朝、死んだことを一言告げてきたくらいだ。
ぽんかんは清美が生まれる前からあの家にいた雑種の犬だ。世話はいつの間にか主に清美がやるようになっていた。私も夫と一緒にぽんかんの散歩に付き合ったことがあった。清美はたいそう可愛がっていたし、ぽんかんもよく懐いていた。清美が家に帰ると長い尻尾を千切れんばかりに振って足元に纏わりついた。十六年程生きていたが、長い間、体毛以外は老いを感じさせなかった。でも、この前の年になって一気に老け込んだ。その頃から庭ではなく室内で飼うようになっていた。ぽんかん自身が不安な気持ちになりやすかったのか、よたよたと歩いて清美に静かに寄り添うことが多かったらしい。その状況でできることが少ないのが歯がゆいと清美が零していた。話題に上ることは多くなかったが、清美がぽんかんに随分心を砕いていたのは確かだった。
ぽんかんの死が清美にとって非常にショックだったというのは分かっていた。清美もそれが悟られていると分かっている筈だった。でも、話はしなかった。
話さない方が楽なのかもしれないと思って、私も無理に聞くことはなかった。登校時と学校を出て暫くは全く別の話をしていた。でも、清美の頭には上手く入っていかないようなので黙った。
重い沈黙の中、ゆっくりと歩いた。清美をそっと横目で見たが、清美は私の方を見ることはなかった。冷たい横顔があるだけだった。
僅かに恐怖を覚えた。普段の状態から切り離されたような姿に遠くに行ってしまう予感を覚えた。引き留める為に気を惹こうとした。だから、あの言葉を口にした。
「清美、お母さんと上手くいっとん?」
清美の目が大きく開かれた。そして、足を止めて顔を私に向けた。頭が真っ白になったのだろう。予想通りの反応だった。
清美と彼の母の問題は根深い。小学生の時から彼女との不和の苦しみは清美に纏わり続けた。でも、ぽんかんの終わりが見えてきた頃には既に口にしなくなっていた。解決した素振りは少しもなかったのに。
「最近全く言わないよね」
清美が瞬く。言葉の意味が分からないみたいだった。
「解決した訳ではないんよね?」
私の口は意識する前に動いた。
「まだ変わらない仲なんよね?」
清美がぎこちなく肯く。そして、ぱっと顔を逸らした。
「そうじゃけど、……悩まなくなったんよ」
「何で?」
清美が返事の前に歩き出した。彼の半歩後ろについていった。
燃えるような紅の光が清美の輪郭をなぞった。歩くたびに揺れる髪がさらさらと光を弄んだ。
清美は私を見ずにつっかえながら答えた。
「……どうでもよくなったというか」
いつもよりも穏やかだが、不安定な声だった。
「……どうしようもないというか」
彼の足元から黒く長い影が伸びていた。
「……どうもならないのが分かったんかな」
校則をきちんと守った黒いリュックが黒い学ランにしがみついていた。
「俺が思うようにはならんと納得がいった」
あはと彼が絞り出したように笑った。それから、早口になった。
「考えてみたら当然じゃ。ドラマだの映画だので描かれているようにゃいかん。千差万別で十人十色わい。家族ってのも。人の集まりじゃけん、型にはまらんわいな」
清美が体ごと振り向く。いつもの笑顔が浮かべられていた。
「それだけじゃ!」
前髪の下で眉が力んでいることに気付いた。無理しているのだ。
「嘘よね」
私の声に清美が表情を一瞬崩した。すぐに持ち直そうとしたので、言葉を続けた。
「逃げとるに過ぎないわい。清美、逃げちゃいかんよ」
清美の腕を掴むと、すぐに振り払われた。拒絶されたのは初めてだった。清美自身も驚いていた。続いて焦りが表に出た。押し込めるように腕を組んだ。隠すように俯いた。
「逃げとらんよ。今までが、迷子になってたようなもんじゃし」
この時、清美の奥を目にした気がした。大きな体の中に、笑顔と強気で出来た鎧の内に柔らかな未知の部分が広がっていた。それに触れようと一歩踏み出した。
髪の下の双眸がぎらりと私の足元を睨みつけた。誤魔化すような瞬きが続いた。
一瞬表れた敵意に心臓が早鐘を打った。同時に苛立ちが生じた。気持ちを覆い隠して清美に向かった。
「いかんよ、清美。小学生の時はあんなに頑張ってたじゃない。どうにかしようって」
「それが間違いじゃったんよ」
清美の声は上擦っていた。耳が紅に染まっていたのは夕陽のせいだったのだろうか。
「無理なもんは無理なんじゃ。じゃけん、この話はおしまいなんじゃ。な!」
清美が顔を上げる。色素の薄い目元が紅くなっていたのは夕陽のせいだったのだろうか。
清美の姿に強い酒を飲んだかのように喉の奥がかっと熱くなった。その熱を生む炎を吐き出そうと口を開くと怒鳴り声が出た。
「馬鹿! 家族じゃんか! 仲良くできない筈がないわい! 清美の努力が足りないんよ! お母さんがああいう人やけん、考える以上に大変に決まっとる! 逃げとんのよ! 面倒になっとんの! 情けない!」
叱咤激励のつもりだった。――八年後の今の私が違和感を覚える。
清美がじりと下がった。曖昧に首を横に振った。瞳は私を見ていたが、逸らせないようだった。
私は清美との距離を詰めた。随分上にある彼の目を睨みつけた。
「清美は弱い人間じゃない筈よ。頑張りいよ! 足掻きいよ! 今まで出来てたのに何で出来んの? 何で止めてしまうんよ! 意気地なし! やれよ!」
腕をまた掴んだ。顔をできるだけ近づけた。
「やじゃ……」
清美が小さな声を上げた。体が強張っていた。それが私を煽った。そう、煽られたのだ。
「女々しいんよ! 男のくせに! 清美って名前嫌がってたくせに似合うわい! 嫌やろ! 嫌やったら立ち向かえよ! 男やろが!」
清美の唇が歪なへの字を描いた。目元に力が入って痙攣した。うっすらと目が潤んでいることに気付いた。気付いてしまったのだ。私の体の穴という穴が収縮した。血が沸騰した。
仕方ないじゃないか。清美が泣く程辛い悩みに気付いた上、発破をかけてあげているのだ。気が昂るのは当然だ。――本当に?
清美が俯いて、空気を噛んだ。荒く短い息が零れた。そうじゃねと小さく繰り返した。自分に言い聞かせているようだった。
大きな手が私の手を包んだ。清美が顔を上げる。歪な笑顔。眉は下がって、目尻には涙が滲んでいる。頬は艶やかに赤くなっていた。
「姫子の言う通りじゃね。諦めちゃいかんね。もっと頑張らなね」
声は震えていた。力強い響きはなく、今にも消えてしまいそうだった。
心臓が跳ねた。肌が疼いた。自然と口角が上がった。
説得が通じたのだ。嬉しさと驚きが同時に来た結果だ。――本当に?
幼い頃から私を助けたくれた清美を助けることができた。歓喜して当然だ。――本当に?
八年後の今、心が冷えていた。
あの時は、正しいことをしたと疑わなかった。清美のためを思ってしたことだと考えていた。
八年経って、自分が何をしでかしたかが分かった。
八年前のあの日の私に、雨宮が語ったかつての彼の姿が重なる。いや、重なったんじゃない。彼を超えて落ちていく。
あの日の私は、清美との関係を壊した。
あの日の私は、清美を傷付けた。
あの日の私は、清美が傷付くことを望んだ。
あの日の私は、清美の痛みにこそ興奮したのだ。
叫びそうになる口を押さえつける。
未熟な細さがあった腕の感触が手に蘇る。拒んだ声が耳に蘇る。
あの日、清美は私に苦しめられていた。
清美の恋心は、あの日砕けたに違いない。高校の時に距離を置いていたのもそれが一因だ。自転車で転んだ時、私を避けていたのは私のことが嫌だったからだ。
発狂しそうな頭に雨宮の言葉が蘇る。
――貴方なんか清美に近づく資格さえない。
そうだ。その通りだ。
相手の痛みを願う恋人が何処にいるのだろう。相手の不幸を喜ぶ友人が何処にいるのだろう。そんな人間はその人との関係を築いてはならない。
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