第22話 森沢豊一の懺悔(1)

 空気が重い。湿気以外の硬質的な感触がする。吸うだけで肺が固められていくようだった。体に纏わりつくじっとりとした暑さに吐き気が。空の無遠慮な青さが目に痛い。青々とした葉を吹き出物のように全身に纏った木々が気に障る。斑に光を投げてくる木漏れ日が視界をちらつかせて鬱陶しい。靴を汚す土が厭らしい。足は鉄になったように重く、引きずるようにしなければ動かなかった。

 世界に拒まれながら、家に着いた。毎日の繰り返しのような家事に取り掛かった。清美に対する言いようのない感情が胸を占めていて、集中できなかった。

 気付けばベッドに横になっていた。時計を見れば二十三時。眠る時刻だ。瞼を下ろそうとすると、夫がやってきた。

 夫はベッドに入りながら、私の腕を掴んだ。

「姫子」

 視線だけ夫に向ける。それで初めて夫の顔が青いことに気付いた。驚きが体を起こした。

「どうしたの? 体調悪いの?」

「……清美のことをどう思っている?」

 夫は縋るように言った。私の思いに気付いたのだろうか。誤魔化す方法を考えていると、夫は言葉を続けた。

「本当はお前とあいつがくっつくべきだったんだろうな……」

 夫の目に涙の膜ができた。居たたまれない。

「そんなことないわ」

 夫が首を横に振る。そして、腕を掴む力を強くした。

「お前は絶対あいつを選んだ筈だ。あいつが壊れた隙に俺が動かなければ」

 夫の黒目がちな瞳から大粒の涙が零れ落ちる。夫はそれを気に留めずに口を動かす。

「俺はあいつを裏切り続けた」

 夫が俯き、布団に涙のしみを作っていく。

「あいつは俺を受け入れてくれたから……何をしても許されると勘違いしてた」

 夫の口から嗚咽が零れる。腕が放された。

「あの日から、ずっと、あいつの夢を見る。苦しい。苦しくて堪らない。……お願いだ、姫子」

 両肩が掴まれる。ぐちゃぐちゃに濡れた双眸が私を捉えた。

「俺の懺悔を聞いてくれ」

 叫びに近い声に私は反射的に頷いた。夫はふっと短く鋭い息を零した。そして、私を放した。涙を乱暴に擦って拭うも、次々と零れる涙が頬を濡らし続けた。結局両手で顔を覆って俯いた。それから漸く夫は言葉を紡ぎ始めた。


 *


 お前が知っている通り、俺は清美と子どもの頃から仲が良くてずっと一緒にいた。中学時代でお前と同じく清美とも疎遠になったと思っているだろうが、それは誤りだ。俺と清美の関係が最も濃厚だったのはその頃だった。

 中学に上がると、部活で忙しくなった。帰宅部のお前たちとは生活が合わなくなった。でも、夜中に清美に会いに行っていた。週三日は会っていたと思う。

 バス停のベンチに座ってよく話した。夜空を眺めながら二人だけの時間を過ごした。だいたいの話題は俺の愚痴と自慢話だった。というか、その為に会っていた。

 清美は馬鹿だから、俺の自己中心的なつまらない話を熱心に聞いてくれた。愚痴を言えば、慰めてくれたり一緒に怒ってくれたり悩んでくれたりした。自慢をすれば、飾らない言葉で褒めてくれて嬉しそうに笑ってくれた。けして俺を否定しなかった。

 きつい物言いで孤立しがちの俺を受け止めてくれた。要領の悪さで文句を言われがちな俺を大切にしてくれた。八つ当たりしてもからかってはきたが、怒りはしなかった。

 俺に対して清美は献身的だった。清美が捧げたその身は俺にとっては余りあるものだった。

 清美は大抵のことはそつなくこなし、成績も俺よりも遥かに上だった。優しくて人と上手く接することができた。その当時は薄暗い所は少しもなかった。絵にかいたような優等生だった。

 だから、親は俺を清美と比べて貶し続けてきた。幼馴染という立場だったから、同級生にも比べられた。

 そんな圧倒的に俺よりも上の存在である清美が俺に傅くのだ。気持ちが良かった。それだけでも自尊心が満たされたが、清美は更に俺のそれを助長した。

「清美は凄いな。賢いし、明るいし、背も高いし。俺なんか清美と比べればゴミだな」

 そんな風に卑屈になって見せると、清美は俺の良い所を次々と上げた。それで満足して見せなければ、清美は自分を下げた。

「俺、別にそんな良いもんじゃねえわい。勉強は豊一より時間があるけんな、多少出来て当然じゃろ。怖く見える顔じゃけん愛想良くしてるだけじゃし、暗いこと言うと自分の気が滅入るけん言わんようにしとるだけじゃし」

 だいたいこういうことを言った。が、中学二年の冬、更に不満気にしてみせると、清美は言葉を更に続けた。

「豊一は家を継ぐとか、部活で大会に出るとか目標があるじゃろ。その為に努力しとるじゃろ。俺はそういうことできんもん。やりたいこととか夢とか無いんじゃもん」

 清美は恥ずかしそうに目線を逸らした。初めて聞く話とあまり見せない姿に俺は追求した。

「映画とか小説とか好きだろ。どうせその辺りに夢持って頑張ってるんだろ。……そういや、小学校の時、配給会社で働きたいとか作文書いていただろうが」

 清美は苦笑して、いつもより早口で応えた。

「よう覚えとんね。書かなあかんかったけん、出まかせじゃ。好きだからこそあまり近づきたくない、って意識のが強いわい。……普通、自分でつくりたいとか思うんじゃろが、そんなんもねえし。まあ、兎に角、その、豊一は凄いよ。俺から見れば。目標に向かって走っとるのがきらきらして見えとんよ」

 な、と肩を叩かれた。話を続けられたくなかったのだろう。それで俺は気付いた。清美が本当に一番自分の弱みだと思っている部分はそれなのだと。

「……この話、他の奴にしたのか」

 意識せずに出た問いに清美は不思議そうに瞬いた。

「してねえよ。話す機会自体ねえもん」

「俺にだけ?」

「まあ、そうなんね」

 腹の底に黒々としたものが渦巻くのを感じた。それが何だったのかは説明し難い。当時は優越感だと思っていた。しかし、この後、俺は清美が自分より下だとより強く確信することがあった。だから、この時の気持ちはそうじゃない気がする。

 その日から清美を見る目が変わった。

 元々、学校では清美とあまり話さなかった。しかし、あいつは大きくて目立つので、つい目で追ってしまうことが少なくなかった。それまでは特に何も思わなかった。でも、あの日から妙な昂りを覚えた。清美が誰かと楽しそうにしている時、あいつの空虚さを意識した。

 実はその頃にはもう清美が姫子に恋していることは気付いていた。同時に、清美も俺の恋心に気付いていると確信していた。それまでは、完璧な清美に対して一切勝算がないと思っていた。しかし、この日あたりから姫子と結ばれる可能性が見えた。

 清美は俺に対する態度を変えなかった。尻尾が生えていたら絶え間なく振り回していそうな態度をあられもなく見せた。自分の弱みが知られている癖に馬鹿なやつ。俺のいやらしい感情に気付かないなんて、愚鈍にも程がある。そうやって心の中で罵った。

 俺のそんな思いがある時いっそう歪んだ。

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