第28話 森沢豊一の懺悔(7)

 清美が帰ってきたのだ。ちょうど友人と飲んでいる時に別の友人から連絡が来た。ある居酒屋に高校時代の友人と入っていく所を見た、とのことだった。高校時代の友人! 俺の体を怒りが貫いた。強い酒でそれを鎮めようとしたが、無理だった。結局、アルコールで得た万能感と共に、一人で清美のいる店に乗り込んだ。

 店に入った途端、清美は俺と目が合って固まった。そして、無視した。俺の怒りは更に高まった。

 ――痛めつけてやる。俺が苦しんだ以上に徹底的に苦しめて壊してやる。

 そう思いながら近づくと、清美は無視できなかったようで俺を見つめた。

 そこで漸く気付いた。清美が帰ってきたということは即ち父親の言いなりになることになったのだ、と。俺はそれを心の中の拳銃に装填した。

 席に行くと、清美は中学時代と同じ反応をつくった。それが余計に俺を煽るなんて思いもしなかったんだろう。

 ジャブとしてお前に惚れていたことを聞いた。はぐらかされたが、胸倉を掴んで怒鳴ると素っ気なく認めた。そして、俺に言ったのだ。

「豊一はさ、もっと素直になるべきじゃよね。昔から言っとるけどさあ。今は特に簡単に言ってほしいわ。随分話してないけん、前よりも意味がとりにくいんじゃよ。何が言いたいん?」

 強烈な哀愁を感じた。二人の空白期間を埋める為に沢山のくだらない話をしたくなった。しかし、無視したり捨てたりする人間が言う言葉じゃないと思い直した。それで、清美を罵倒した。すると、清美は呆れて言ったのだ。

「まあた意地悪言って……飽きへんの?」

 シームレスな言葉は清美の中には俺と離れていた期間がないように錯覚させた。友情が俺を絡めとろうとした。そんなものとっくに無い筈なのに。

 怒りを取り戻し、清美に向き合う。顔をできるだけ近づけて、言葉の弾丸を撃ち込んだ。

「俺はな。清美。お前が嫌いなんだよ」

 清美は目を見開いて、呆けた顔を晒した。普段は煩いくせに言葉を詰まらせて、何も言えないみたいだった。

 胸がすく思いとはこういうことを言うんだろう。積年の苦しみが吹っ飛びそうな程の悦楽が襲ってきた。でも、満足はできない。清美に思い知らさなければならない。俺を捨てるなんてしてはならないと。俺から逃れることはできないのだと。

 清美は俺のなすがままだった。罵ろうが何しようが反抗しなかった。ショックから反応ができないようだった。ただ、ただ、あの大きな瞳が俺一人だけを映していた。

 清美の秘密を大事な汚点たちにばらしてやっても、清美は俺には反応しなかった。だが、あいつらが殺気立った。それで、清美は俺から目を逸らした。茶化そうとでもしたのか、あいつらに向けて笑みをつくった。

 苛立って、半ば反射的に清美の髪を掴んだ。清美は髪を伸ばして項を隠すように下の方でくくっていた。俺の掴んだ耳の斜め上あたりはゴムの影響を受けて後ろへと流れていた。それを乱した。掬い取るように髪を引っ張った。柔らかな細い髪が指に纏わりついた。何本か抜ける感触もあった。

 清美は痛そうな声を上げ、目を眇めた。そして、俺の手を掴んだ。俺よりも大きく、俺よりも皮膚が厚く、俺よりも骨ばった、俺よりも温かな手で。力は強くなかったので、痛くはなかった。手一つで俺を苦しめることなど簡単だろうに。この時点でなお敵意はなかった。きっとまだ俺を信じていた。

 ――壊し足りない。

 次の弾を撃つために耳に口を寄せた。でも、清美にだけ聞こえても意味がない。清美が誤って価値を見出したものたちにも聞かせなきゃいけない。仲を跡形もなく引き裂かねばならない。

 準備として長い息をすると、清美の耳にかかった。清美はくすぐったのか、瞼を下ろして僅かに身を捩った。そして、体を強張らせた。その仕草にいっそう煽られた。

 俺の口はやけに滑らかに動いた。体の奥から生じた灼熱は喉へと昇り、声となった。

「あんなに嫌がっていたのにさ。あんなに女みたいにピーピー泣いて嫌がってたのにさあ。結局父親の言いなりになって表に出られなくなるってのはお前にはお似合いの末路だよなあ。どんな気分だ?」

 清美は、また泣くと思った。これを言ったなら、プライドはずたずたになることが分かっていた。俺に赦しを乞えば、適当に誤魔化してやろうと思った。でも、俺の予想通りにはならなかった。

 今まで俺を受け入れていた癖に。今まで俺を拒絶しなかった癖に。俺を信じていた癖に。

 突然、俺を突き放した。

 恐ろしい怒声を、冷たい視線を、確固たる敵意を、清美は俺に向けたのだ。

 怯んだ。俺は清美を放した。あいつは乱れた髪そのままに俺を睨みつけた。思わず後ずさると、噛みつくように言葉が投げられた。

「あんたなあ」

 全身が硬直した。息が上手くできなかった。

 高校時代の喧嘩と言えない一方的な嬲りを思い出した。今度は俺が踏みつけられる番だ。きっとひとたまりもないだろう。

 しかし、それは行われなった。清美の向かいに座っていた白水優大が俺に殴りかかったのだ。清美が振るわれた腕にしがみつくようにして止めた。俺は後ろに避けようとしてこけた。

 清美は戸惑っていた。真っ赤な白水を宥めるうちに態度も柔らかくなっていった。

 それで俺に手を差し伸べたのだ。友人だと言うように。その手を掴むと、また俺の調子は戻った。頭に回り切ったアルコールが清美は俺の友人のままだと誤解させた。だから、中学時代の態度で嫌味を言った。清美も返した。あの頃と何ら変わらずに。俺も以前と同じように舌打ちで返した。

 そこから、清美の態度は変わった。

 じっと俺を無言で見つめたのだ。先程のショックから来る思考停止とは別物だった。敵意はなかったが、好意もなかった。品定めしていた。

 また捨てられる気がした。高校時代の汚点は捨てないのに、という清美の理不尽さに対する怒りと縋りつきたくなる衝動が同時に押し寄せた。

 今の今まで清美は俺と仲良くしようとしてたじゃないか、と自分を安心させようとした。けれど清美の目は変わらない。思考していた。確実に俺を天秤にかけていた。

 体が震えてきた。必死に力を入れて止めようとするが、無理だった。

 清美が口を開く。やけにゆっくりとしているように感じた。その唇の合間から声が漏れた時、俺は捨てられるのだ。

 お願いだ。俺を捨てないでくれ。

「……悪かったわ」

 突然の謝罪に驚いた。一方、清美は粛々と言葉を続けた。

「俺、あんたにも迷惑かけてきたんじゃろうな。考えたことなかったけど、そりゃかけとうよな。嫌われて当然じゃ」

 抽象的だが、欲しかった謝罪だった。清美が俺に対する非を認めるとは思ってなかった。塩らしい態度に妙に唾が湧いた。

 赦すなと必死に自分に言い聞かせた。俺を苦しめた罪がこの程度でなくなるものか。

 清美が目を伏せた。やたらと人を見据える癖があるから、視線が逸らされると緊張感があった。

「今までごめんな」

 寂しげな笑顔と共に言われた。

 ――なあ、姫子。お前はどう解釈する? ああ、決別ととるか。そうか。そうだろうな。そうだよな。お前は俺より頭が良いな。きっとそうだったんだ。

 俺は、そうは思わなかった。今までの仕打ちをただ謝って、これから昔と同じように仲良くしようと提案されていると思った。

 驚いた後、甘ったるく粉っぽい感覚が喉の奥でした。そして、急に視界が開けた。

 清美のまわりには躊躇いなく喧嘩するような猛犬共がいた。清美は過去も未来も暴力に彩られていた。

 純粋な嫌悪感が襲った。

 清美は沼にはまっているようなものだ。黄土色とも茶色とも黒色ともとれる汚い色の、唾液ぐらいの温度の、ぬるぬるとした沼にとられている。清美自身その泥を避けようとしない。できない。

 このままでは昔の関係には戻れない。

 ならば。

 一瞬で俺は夢想した。ヤクザになってしまった清美が嫌な仕事をさせられて傷付き、この故郷に帰ってくる。夜闇の中、お決まりのバス停で俺は清美を慰める。清美は俺だけに涙を見せるのだ。ぼろぼろと大きな雫が頬を濡らす。そしたら、俺が拭ってやるのだ。綺麗な髪を梳くように撫でてやるのだ。

 沼から青空へと伸びた蓮が美しい花を咲かすように、清美もいつか泥から逃れる時が来るべきだ。自分を取り囲む汚濁を洗う時が来るはずだ。

 それまで俺は待つ。清美が己の愚かさに気付くまで待つ。

 そう決意すると、清美が自分の非を未だよく分かってないことに気付いた。盲目な馬鹿だから、何となくでしか捉えられずに謝罪したのだろう。

「情けねえ奴」

 そう言い残して店を去った。

 高揚感があった。未来が明るく見えたのだ。清美は相変わらず俺の隣が居場所で、俺に傅くのだ。そう錯覚していた。

 通りがかったコンビニで缶チューハイを呷り、更に脳をアルコールに漬けて万能感を得た。明日にでも清美は俺が思った通りの動きをして此処に住む気がした。

 帰宅すれば、お前が出迎えた。輝いて見えた。清美が得られなかったものを俺が持っているのだ。お前が俺のもとにいるということは、俺が清美よりも優れ、清美を俺に尽くさせる証拠だった。その時はそう感じた。

 だから、清美の恋心をお前に暴露し、お前が清美のものになりはしないことを確認した。お前は否定しなかった。いい気分だった。

 その日から俺は夢の中で反芻した。嫌いだと告げてから清美が謝るまでを眺め続けた。早く泣きついてこいと願いながら、清美の姿を描いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る