第4話 橘清美の家庭環境

 南曇正美が駄目だとすれば、心当たりはもう清美の家族しかいない。清美の住んでいた家に向かうことにした。

 清美の家庭環境は複雑だ。一緒に住んでいたのは父母の他に伯父家族。清美の実母・瀬戸香はここら辺では有名な変人だ。非常な美人の癖に、コミュニケーションが酷く苦手で人と殆ど接しない。中学時代からの引きこもり――全く外に出ないという訳ではないが――で、清美ともまともな母子関係を築けていない。

 小学生中学年の時、私と清美と夫の三人が空き地で遊んでいると買い物帰りの彼女が通りかかった。ちゃんと彼女を見たのはそれが初めてだった気がする。私も夫も彼女の美しさに見惚れていると、清美はいつもの人懐っこい笑みで彼女に近づいた。私と夫も彼の背中を追いかけた。彼女は三人に囲まれて狼狽えた。深く被った黒い帽子の下の白い肌は真っ蒼に染まっていた。長い睫毛に縁どられた目は潤み、ぎょろぎょろと三人を見回す。荷物を持とうかと清美が提案すると、彼女は首を横に振った。アールデコを思わせる癖毛がみっともなく揺れた。そして、彼女はごめんなさいと小さく言い捨てて背を向けた。そして、大きな乳房が乱暴に揺れるのも気にせずに走り去った。私と夫は異様な出来事に唖然としていた。清美は不満げに唇を尖らした。

 私が知る限り、清美は小学生の時から彼女との関係を悩んでいた。だからか、清美は伯父夫婦を本当の父母のように慕っていた。伯父夫婦も清美を本当の子どものように可愛がっていたし、清美の友人も伯父夫婦を父母と勘違いすることがあった。

 伯父夫婦の本当の子ども――清美の従弟・橙司も弟のように清美に接していた。彼は泣き虫で、嫌なことがあるとすぐに清美に泣きついていた。清美も甲斐甲斐しく世話を焼いていた。五つも離れているからか、小学生の時の清美の態度は兄というより保母さんに近かった。中学生の時には幾分か兄らしくはしていたが、普通の兄弟よりかは余分に可愛がっていた。橙司も清美程ではないが人懐っこく、私と夫も仲が良かった。しかし、清美が荒れた高校時代に縁遠くなった。彼は今年から県外の大学の寮に入っている、と聞いたことがある。今日会うことはないだろう。

 清美の父・宗助は不思議な人だ。清美との仲は良好だった。清美は伯父夫婦に懐いていたが、何処か遠慮する所があったらしい。そんなことを思わせるほど、清美は宗助と喋っている時が一番気楽そうに見えた。宗助は清美どころか私よりも背が低く、顔も丸っこい。幼い頃は瓜二つだったが、清美が成長するに連れて宗助の方が幼く見える時が多くなった。中身も子どもっぽい。清美よりも落ち着きがなく、よく喋る。何が楽しいのか笑っていることが多く、人の懐に入るのが上手い。偏屈で排他的な私の祖父すら宗助を気に入っていた。祖父がベッドから一人で移動できなくなった晩年――私が小学二年生の時――でさえ、宗助をよく家に呼んで話をさせていた。宗助は自分のことを多くは語ろうとしなかったが、祖父にはどうやら過去のことを話していたようだった。

「宗助は飄々しとるがね、自分の矜持の為に苦労してきとう。なかなかできんことわいね」

 祖父がそう言ったことがある。その瞳はいつもより柔らかで、窓から見える宗助の小さな背中に向けられていた。

 私が知る宗助の過去は次のようなものだ。戦争孤児だった彼の父は京都で小さな輸入会社を興した社長に拾われてそこで働いていた。父は早くに亡くなり、宗助は若くからその会社に尽くした。しかし、社長が亡くなって息子がその座についた。息子と宗助は馬が合わず、宗助は会社を追われることになった。宗助は息子がいる本州自体に留まりたくなくなり、四国へと渡った。そのうち貯金が底を尽き、この愛媛でホームレスになった。公園で途方に暮れている時に瀬戸香と出会い、その縁で蜜柑農家の橘家――清美の祖父母はその時にはもう他界し、家には当時まだ十代だった瀬戸香とその兄と飼い犬しかいなかったらしい――で暫く住み込みとして働くことになった。その間に瀬戸香と恋仲になって結婚まで至り、そのまま橘家に住むことになった。

 私もまわりも高校までこの話を信じていた。冷静に考えてみると、宗助は身元不明の不審な人間だ。でも、宗助は持ち前の愛嬌で人に疑問を持たせなかった。あの家を話題にする時、誰もが瀬戸香のことぐらいしか口にしなかった。寧ろ、瀬戸香のことを口にすると、宗助は波風立てないように怒って見せるから誰もが彼に同情さえしていた。清美が高校に上がるまでは。

 清美が荒れると、様々な噂が囁かれた。誰それと喧嘩した有名な誰かを負かした嗜虐的な振る舞いをした横暴な真似をした誰かを怪我させた病院送りにした消えない傷を残した殺した実は人を数人殺したいや十数人だ数十人だ百を超える少年院にいたことがある警察を黙らせた等々。あり得ないとすぐ判断できるものが多かった。当時は噂の内容よりも嫌な噂を多数流される敵の多さに怖れていた。そんな態度でも無視できない噂があった。

 ――橘清美の父はヤクザだった。

 知った時、異様に納得がいった。今まで何に違和感を抱いていたかも分からなかったが、自然と真実だと確信できた。だから、その時から私は宗助を避けるようになった。なるべく彼に会わないよう、彼と会ってもすぐ会話を切り上げて逃げた。私と同じような態度をとった人間は少なくなかった。でも、清美の噂が収まった高二の頃にはもう今まで通りに接する人が多かった。今も宗助が誰かと楽しそうに話しているのを目にする。宗助が噂を否定したとも肯定したとも聞かないけれど。

 噂が本当だとして清美はどうだったのだろうか。木漏れ日を目で追っていると、初めてその疑問が浮かんだ。

 清美は何処まで知っていたのだろう。知っていたとしていつから知っていたのだろう。幼児だった頃はきゃっきゃと笑いながら宗助と手を繋いで歩いていた。小学校中学年になる頃にはよくじゃれあいのような喧嘩をしていた。中学校に上がる頃には兄弟に間違いそうな程に対等な立場で話していたように思う。中学三年の頃には窘めることもあった。高校の時は煙草を取り上げてからかっているのと二人とも笑いながら歩いているのを見たことがある。清美は妙に道徳を重んじるというか、精神的に潔癖なきらいがあった。実父が表に出てはいけない生き方をしてきたと知ったら、きっと苦しんだだろう。

 あの大きな目を見開いて。白目が照るように潤んで。震えを誤魔化すように唇を真一文字に結んで。頬の朱は隠し切れないだろう。広い背中が硬さを増すように強張って。骨ばった指を隠すように拳をつくって。脚は感情の波に耐えるように踏ん張って。靴の中で指も身を寄せ合って。そして、噛み殺せなかった嗚咽がふっと息になって零れ落ちるかもしれない。それで――

「清美を追い詰めて楽しいんですか!」

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