第10話 雨宮信生の回想(5)

「指切りしよか、指切り」

 子供っぽい行為が秘儀のように聞こえ、僕は頷きました。そうするや否や、清美は僕の小指に自分のそれを絡ませて引き上げました。僕が小指以外を丸めると、清美は手を揺らしながら歌いました。冗談めかしたような歌い方でしたが、安定感と力強さとそして独特の艶を持つ高い声が魔法をかけているのだと錯覚させました。

「指切った!」

 歌の終わりとともに、指が離れました。名残惜しく、遠のく腕を掴みました。清美はきょとんとした後に優しく微笑み、僕に掴まれたままの手で僕の頭を三回撫でました。そして、ふわりと言葉を紡ぎました。

「守ってな」

 ずしんと胸に響きました。その衝撃が伝わってしまいそうで腕を放しました。

 約束の事だけだとは分かっていました。しかし、同時に清美自身の事のようにも思えました。誤解だとは分かっていましたが、その言葉は僕が欲しがり続けたものでした。

 ――清美を守りたいという思いを許してください。

 願いを口に出さないように僕は激しく頷きました。清美が困る言葉を喉の奥へと押し込めました。

 清美は不思議そうに瞬きましたが、そう心を留めることでもないと判断したようで白水先輩に目を移して話しかけました。

「あんたもしとく?」

「しねえよ! 大人だもん!」

 白水先輩は馬鹿にし切ったようなスキップで僕と距離を縮めると、乱暴に頭を撫でました。

「信ちゃんは幼児だけどさあー」

「僕は大人です。一つしか年が変わらないのに、子供扱い止めてくださいよ」

 手を振り払うと、白水先輩は意味ありげな目線を清美に向けました。清美が困ったように笑いました。それを見て白水先輩は増長しました。

「大人ぶっちゃう年頃でちゅかあ。しょうがないでちゅねえー」

 ねちっこい声でそう言ってまた僕を撫でました。まあまあと清美が白水先輩の肩に手を置きました。そして、僕の肩をとんとんと叩きました。

「信生はもう大人じゃよなあ。親父さんの会社で営業頑張っとるんじゃぞー。偉い! 凄い! 格好いい! 痺れる!」

 なんでもないような言い方でした。しかし、僕は一瞬で頭が茹で上がって唇が弛緩してしまうほど嬉しくなってしまいました。その後、僕らは暫く僕の話をしながら歩きました。

 清美は素直に僕のことを褒めてくれました。人を揶揄うのが好きな白水先輩も清美に流されて僕を褒めるほどでした。僕の努力と結果を当然のことのように認めてくれる清美にかつて抱いていた清らかな気持ちが蘇りました。僕は彼に父性のようなものを見出していました。

 しんとした夜の空気。無機質な夜空。寂しげな街灯の光。それに揺れる淡い影。三人だけしかいない道。寂しい景色と近づく別れへの焦燥感が僕に清美の袖を掴ませました。

 清美はさっと振り払って、僕の手を握ってくれました。手を引かれる形になって自分の幼さを自覚しました。白水先輩に笑われましたが、僕は清美の手を放しませんでした。清美も僕を拒絶しませんでした。

 清美の前では僕は子供のままで良いのだと思いました。

 だから、清美と白水先輩と別れる時につい駄々をこねてしまいました。清美の手を放さず、困らせてしまいました。

「今生の別れでもあるまいに。そりゃあ、別のとこ行くけど会えん訳じゃないじゃろ。今までみたいに電話とかもできるわい。なっ!」

 清美は僕に目線を合わすように僅かにしゃがんで宥めてくれました。白水先輩が呆れているのが見えました。二人はこの後も一緒に歩けるのが羨ましくて仕方がありませんでした。それが余計に悲しくなって涙がこぼれました。清美が指で涙を拭ってくれました。

「また会えるけん、泣いちゃいかんよ」

「会えるっていつですか。いつまた此処に戻って来ますか」

 清美の慈愛を湛えていた口元が一瞬だけ強張りました。それは悲しそうに見えました。彼はすぐに取り繕うように口角を上げました。

「いつになるじゃろね。慣れたら帰ってくるよ」

 僅かな表情の変化とするりと告げられた返事は僕と清美を同化させました。

 ――好いていた友人に裏切られたから、彼が住む此処は居心地が悪い。

 ――必死に隠していたことをばらされてしまったから、此処にはいられない。

 ――「表に出られなくなる」ことをさせられるから、かたぎの僕らとはもう会えない。

 大きな感情が臓腑を焼きました。気が付かなかったことが悔しくて、地面に視線を逃がしました。僕の前にいる彼は悲しみの雨に打たれ続けている。それなのに、僕はただ自分の我儘のために彼を苦しめていた。それが分かってしまって、泣くことしかできませんでした。

「信生?」

 心配そうな声が降ってきました。顔を上げると、潤んだ視界の中、困っている顔が見えました。最後の別れになるのに、そんな顔はしてほしくありませんでした。だから、僕は顔を拭って、手を放して、笑いました。何も気づかない振りをしました。

「僕は待ってます」

 清美は少し戸惑って、何とか定型の笑みを作ってくれました。

「じゃあ、またな」

 そう言って、誤魔化すように手を振るのでした。僕もそれに倣いました。離れても暫くそうしていましたが、清美が白水先輩に何かを話しかけるのを見て止めました。しかし、小さくなっていく二人の姿を見ていました。

 二人の行く先には月があって、街灯のない道を白く照らしていました。その光の中で二人は何やら楽しそうによく動きながら話しています。曲道に入って二人は完全に見えなくなりましたが、青みを帯びた影だけが揺れているのが名残として見えました。

 影が見えなくなってもその場所を暫く見ていました。

 心は、澄んでいました。凪の状態でした。無我の境地に近いのでしょうか。

 やけに静かな中、降り注ぐように自分が為すべきことが分かってきました。

 彼のいないこの場所で。彼の帰れなくなったこの故郷で。彼を囚えてきたものばかりのこの僻地で。

 遠くに行ってしまった彼の為にできることをしようと心に決めたのです。


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