第13話 雨宮信生の独白(2)

 清美は何の躊躇いもなく相槌を返しました。頑張ってきたんね、大変だったね、と欲しい言葉をくれました。離れようともせず、背中や頭を撫でてくれました。

 しっとりとした声音から、柔らかで力強い手の感触から、頬を寄せた首筋の体温から、清美が僕を思ってくれていることが分かりました。

 ――この瞬間、橘清美の全ては雨宮信生一人に注がれている。

 胸の中が火を貰ったように温かくなりました。じんわりと熱は体の末端へと伝わっていきました。

 満足感を覚える頃には嗚咽も涙も引っ込んでいました。ただ、黙って清美に体を預けていました。

 その暫く後、清美が僕を放しました。

「もう大丈夫?」

 頷くと、清美は笑いました。にこっと音が付きそうな程の大きな変化でした。怖い所も冷たい所も一切感じませんでした。可愛い、という感想がさっと頭をよぎりました。

 随分と屈託ない笑い方をするんだな。笑うと垂れ目気味なのが目立つなあ。口が大きくて唇の動きが分かりやすいな。喧嘩してる筈なのに傷跡がないなあ。ニキビもそばかすもない綺麗な肌だなあ。

 色々な感想が浮かび、清美から目が離せませんでした。見惚れていました。

 清美は暫く僕と無言で見つめ合うと、不思議そうに瞬きました。そして、ぱんぱんと僕の制服を叩いて砂を払いました。

「あんたの通っとる学校な、二年に油谷って友達がおんの。何かあったらそいつに相談しいな。頼りになる奴じゃけん、力になってくれるよ」

 清美は続けて油谷先輩の特徴を話しました。まったく頭に入りませんでした。突き放された気がして、寂しくなりました。

「先輩じゃなきゃ嫌です」

 清美は眉を下げてきゅっと口角に力を入れました。そして、わしわしと僕の頭を撫でまわしました。

「俺に話してくれてもええよ」

「本当ですか?」

「本当」

 清美は短く笑い声を上げました。宙に解けるような軽やかさでした。その時、彼に対する恐怖心が、もう一切無くなっていることに気付きました。代わりに身を貫いていたのは好意でした。この気持ちを抱かせた理由を知りたくなりました。

「どうして、助けてくれたんですか?」

 清美はきょとんとしました。そして、あっさりと言いました。

「見てて嫌だったんじゃもん」

 偉そうにするでなく、格好つける訳でもなく、ただ、当然というような態度でした。

「それだけですか?」

 清美は不思議そうに頷きました。どうやら彼の中では他の理由がないようでした。

 困惑しました。目の前の人間が人間に思えませんでした。奇特を通り越している。神だとか天使だとかそういう言葉さえ浮かびました。

 僕の考えは表情に出ていたようでした。清美は僕を見て怪訝そうに首を傾げました。そして、唸り、唇を尖らせました。

「八つ当たりもあるかもしれん」

 捻り出したような声でした。

「あのねえ、仲いい人と喧嘩してんの、ちょうど。まあ、それでむしゃくしゃはしとってんね。しとるわ。しとるわい。しとるしとる。そんな中、殴られてもしゃあないようなことしてる奴らがおったら飛びつくじゃろ。八つ当たりしていいんかヤッターラッキーっていう心境よ」

 な、と清美は笑いました。本人も無理があると思ったらしく、口角が痙攣しました。嘘だとは分かりきっていたので、僕は納得をする振りをしました。でも、それで会話を終えるのは惜しくて何とか言葉を投げました。清美は楽しそうに言葉を返してくれました。空が暗くなるまで僕らの会話は続きました。

 清美が言っていた喧嘩が本当のことだと分かったのは、次の日の放課後に清美の学校まで会いに行った時でした。相手は南曇先輩でした。彼女に白水先輩など他の人が加勢し、清美が孤立する形の喧嘩でした。けれど、その時には既に仲直りしていました。

 清美の周りの人達は容易く僕を迎え入れてくれました。僕も彼らを好ましく思いました。そうして、清美の傍が僕の唯一の居場所になりました。

 清美の傍にいるだけで、イジメがなくなりました。だから、盗みもしなくてよくなりました。家にいるだけで感じていた罪悪感はなくなりました。相変わらず家では疎外感がありましたが、清美の傍という他の居場所があったので気になりませんでした。それまでは孤立していた学校でも、油谷先輩をはじめ清美との縁がきっかけで友人ができました。

 清美の周りには僕以外の人間も勿論いました。放課後、僕が合流できる際には既に二人以上は清美といることが殆どでした。だから、僕と清美が二人きりになることは滅多にありませんでした。二人きりでなくても清美の隣は南曇先輩が定位置で、その反対側は白水先輩か油谷先輩が占めることが殆どでした。

 最初はそれが不満でした。気をひくために髪を派手な色に染めたり、袖を引っ張ったりしました。困らせるようなこともしました。しかし、清美は全て受け入れてくれました。驚いたり困ったり宥めたり揶揄ったりしても、拒みはしませんでした。何をしても結局は楽しそうに笑って僕を撫でてくれるのでした。

 その内に清美の方から積極的に構ってくれるようになりました。手を引いたり、肩に手を置いたり、アイスを食べる時には僕と分け合うものにしたり。

 清美が僕に明らかに注意を向けてくれる程に、僕は心強くなりました。清美が触れてくれる程に自分が好きになれました。清美と見る景色はいつも美しく見えました。僕の世界は清美によって成り立っていくようになりました。

 自然と、自分の理想が清美になっていきました。清美のように温もりを与えれるようになりたい。清美のように素直になりたい。清美のように愛し愛される人になりたい。清美のように何気なく人に手を差し伸べれるようになりたい。

 尊敬していました。――そう、尊敬だったのです、僕の清美に対する気持ちは。

 その気持ちが歪んでしまった出来事がありました。

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